著者:小河 俊紀(おがわ としのり)
はじめに
この新規連載「マネーの未来」2回目は、「明治維新を支えた 越中商人➀」という題名にしました。
明治維新というと150年も前の昔話なので、未来のマネーとどう関係するのか、と思われるでしょう。
仏教の経典で「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(心地観経)と説きます。
私は、カード研究者であり、歴史学者ではありません。
しかし、関連文献やネット情報で過去の史実を調べ、僭越ながら自分の専門領域で独自の歴史解釈と未来仮説を割り出すことは不可能ではありません。むしろ、必要です。
なぜなら、歴史は記録に残っていないか、残っていても次世代で改ざんされている場合が多いので、後世の視点と技術で多角的な光を当て、教訓を生かす必要があるからです。
例えば、今100年に一度という新型コロナ禍で世界中が揺れ動いている原因は、もしかしたら、250年前に勃興した資本主義経済がもたらした必然の結果かもしれません。
「資本主義はパンデミック(生物突然死)の危機をはらみます。」
赤文字の一文は、貨幣学者の山口揚平先生の「新しいお金の教科書」(ちくまプリマー新書、P.55)から引用したものです。利益至上主義で生まれた無機質なお金の偏在は、人類の生存を危うくするとの警鐘です。2017年11月発刊ですから、山口先生は2年以上前に現在の災禍を予見されていたかのようです。
山口先生の歴史観・マネー観はとても分かり易く、かつダイナミックですから、私は「キャッシュレス社会と通貨の未来」(民事法研究会。2019年2月発刊)執筆の際に、この書籍を何度も熟読しました。もちろん、私流の視点で、地球温暖化の結果起こる人類破滅の可能性を空想未来小説のスタイルで描きました。
1700年代半ばに、蒸気エネルギーを基礎に第一次産業革命がイギリスで始まり、1800年代半ばには電気エネルギーを基礎に第二次産業革命が米国で起こりました。
そして1970年代からは原子エネルギー&コンピューターを基礎に第三次産業革命が始まり、現在に至っています。資本主義の飛躍的発展で世界はグローバル化し、生活は目覚ましく便利で豊かになりました。
交通インフラが整備され、各種電化製品等の物資が安価になり、そしてインターネットで瞬時に情報交流ができる時代になりました。お金さえあればほとんど手に入る時代が実現しました。
一方、果てしない競争と収益追求が、お金の偏在と自然環境の破壊をきたし、世界的な異常気象、果てにはパンデミックという疫病災禍をもたらしたように思えます。
間もなく、人工知能(AI)や量子コンピューターによって第四次産業革命が始まると言われていますが、生身の集団行動が危険な新型コロナ禍は、各種業務処理のAI化を否応なく加速させ、大量の失業者を生む危険性をはらみます。
人類は今、間違いなく大きな転換期を迎えています。
今回連載のヒント
新型コロナ禍緊急事態宣言解除後の5月29日に、NHKで「歴史秘話ヒストリア「富山の薬売り 知恵とまごころの商売道」という番組が放映されました。ご覧いただいた読者も多いでしょう。
富山の薬売りは、元禄時代(1700年ころ)に始まり、医療体制の不備な当時に貴重な医薬品を全国に徒歩で宅配し、国民の健康を守りました。今でも家庭配置薬は健在ですし、富士薬品や広貫堂が有名です。※以下は、NHKホームページの番組紹介(抜粋)です。
「富山の薬売りは、なぜ全国的に有名なのか…そんな素朴な疑問から歴史を追っていくと、明治維新での薩摩藩の動きにも密接に絡んだ壮大な物語につながりました。薩摩担当の薬売りが、薩摩が必要としていた昆布の密貿易を助けることで、財政立て直しにも一役買っていたというお話。さらに、スパイのような活動や藩士の看病まで。薩摩が力を蓄えなければ、明治維新につながる動きも違っていたかもしれないと考えると、富山の薬売りの存在は、幕末に大きな役割を果たしていたのですね。」
https://www.nhk.or.jp/osaka-blog/historia/429936.html富山出身である私でも良く知らない“驚きの歴史秘話”でした。
この番組は、関係者への綿密なインタビューで構成されており、高い信憑性を感じました。しかし、放映時間の関係か、一歩踏み込んだ生々しい背景などは省略されていました。
明治維新については過去いろいろ語られています。討幕派への武器調達に、坂本龍馬やイギリスのグラバー商会が関与したことは有名です。しかし、遠く830キロも離れた富山の薬商人が財政危機の薩摩藩を立て直し、武器の大量調達を可能にしたことはほとんど知られていません。
具体的には、幕末とはいえ、時の最高権力者徳川幕府の承認なく、高価な昆布を薩摩藩に大量供給しました。薩摩は、昆布を珍重する中国へ密輸し、巨額な貿易利益を得たのです。
一つ間違えば、大変な制裁があったはずで、単に薬と昆布をめぐる利害関係だけとは思えません。
さらに、高価な置き薬を庶民消費に近づける「先用後利(使った分だけ後払い)」という信用販売が販路を全国に広げる駆動力となったのですが、どういう発想で生まれ、現在のクレジットカードシステムとどこが違うのか?? 関所の検問が厳しく、道路が不整備な当時に、徒歩で全国に普及させた秘訣は何か、興味は尽きません。
歴代総理大臣の系譜
薩長同盟を基盤に達成されたこともあり、歴代総理大臣の多くは、初代の伊藤博文(長州)や二代目の黒田清隆(薩摩)はじめ、山口県・鹿児島県系列で占められてきました。別表は、「先祖を千年、遡る」(幻冬舎新書)の著者丸山学氏作成の安倍総理と麻生副総理(もと総理大臣)の家系図です。
丸山氏(行政書士)の解説によると、双方は親戚関係にあり、吉田茂氏はじめ多くの総理大臣を輩出している家系との事です。
http://www.5senzo.net/7135.html
もし、この解説通りなら、明治維新が生み出した国政の流れは、150年経った今でもしっかり継承されていることになります。
残念ながら、陰の功労者だった富山県出身の総理大臣は過去一人もいません。私の個人的憶測ですが、おそらく、下級とはいえ武士が主役だった薩長と違い、富山は当時身分の低い薬売り商人が立役者だったからではないでしょうか?
とにかく、わずか10万石の富山藩の行商人が、近代日本をこじ開ける陰の立役者だったとすれば、故郷の富山をあらためて捉えなおす意味は十分ありそうです。
ちなみに、当時の富山藩とは現在の富山県の一部にすぎません。 ですから、逆にその実績の凄さを感じ取っていただけるはずです。
江戸時代最大の物流網=北前貿易
読者の皆様は、「北前貿易」をご存知でしょうか? 日本の近世を知るには、江戸時代を通して最大の物流システムで あった北前貿易を抜きに語ることはできません。北海道産の貴重品昆布も北前船で運びました。航路は、図表のように、北海道と大阪を日本海経由で結ぶ動脈的な西回りと、太平洋側を結ぶ東回りがありました。そして、大量の貨物を運んだのが北前船でした。
下記写真と、解説箇所共に海洋総合辞典から引用北前船は、荷物の賃送による利益を目的とするのではなく、大阪を出発してから各寄港地において、米を始めとする食料品、古着等の 衣料品等を購入し北海道に運び、帰荷として昆布やにしん等の海産物を本州に運ぶ「買積船」です。
買積船とは、遠隔地間の交信手段が無かった当時、産地と消費地の莫大な価格差により膨大な利益を上げることができました。
閑話休題=筆者の先祖
歴史家でもない私が、僭越にも独自の歴史観を書こうとするのは、今回のテーマが自身の成長過程と様々に重なるからかもしれません。
父(故人)は福井県、母(故人)は石川県の出身で、私は富山県で生まれ育ちました。ですから、「越中強盗、 加賀乞食、越前詐欺師」という北陸3県の県民性を皮肉った古典的ギャグも理解できます。
親戚には、先祖代々配置薬業を営んできた家もあります。とりわけ、明治生まれの母は、江戸時代から北前貿易で財を成した石川県美川町(現白山市)の豪商の子女で、大きな蔵がいくつもある裕福な 家庭に生まれ育ったようです。
※以下は「北陸物語」ホームページから引用。https://monogatari.hokuriku-imageup.org/news/2018/07/27/32291/白山市の海辺には美川漁港があります。かつては「本吉湊(もとよしみなと)」と呼ばれていました。
ところで、室町時代の書物『廻船式目』に「三津七湊(さんしんしちそう)」という言葉が出てきて、これは当時の日本の十大港湾を意味するんだそうです。
『三津』は「安濃津(三重)」「博多津(福岡)」「堺津(大阪)」、『七湊』は「三國湊(福井)」「本吉湊(石川)」「輪島湊(石川)」「岩瀬湊(富山)」「今町湊(新潟)」「土崎湊(秋田)」「十三湊(青森)」を指し、なんと! 10のうち4つも北陸の港ではないか! と、今になって知りました。
「三津七湊」のひとつ「本吉湊」(今の美川地区)は、江戸期から明治期、北前船の寄港地として繁栄しました。美川地区には美川仏壇・美川刺繍・おかえり祭りなど、独特の伝統工芸・伝統行事が継承されています。
https://monogatari.hokuriku-imageup.org/news/2018/07/27/32残念ながら、母の生家はその後大洪水に襲われ、没落したのですが、母は加賀出身であることを生涯誇りにしていました。時代は昭和だというのに、加賀の分藩であった富山を見下す癖があり、富山生まれの息子としては甚だ困りました。
富山とカード会社を結ぶ縁
今回連載1回目で、地元富山の地味な国立大学に入り、引け目を感じながら暗い学生時代を過ごした体験を率直に書きました。
実は、第一志望は、実力も顧みず国立一期校の金沢大学医学部を目指しました。幕末の1862年に加賀藩に開設された金沢彦三種痘所をその起源とする名門医学部です。正に進路選択は母の影響でした。しかし、苦手な数学が災いし見事落第しました。
経済的理由もあって、私学を受けることはできず、一浪して入った地元国立大学は、学園紛争が吹き荒れていました。
友人には恵まれたので、バリケード封鎖された学舎を尻目に、空手稽古と能楽修行に明け暮れる硬派な学生時代でした。
1年間自主留年して1972年に大学を卒業し、私は深い意図も知識もなく兄の勧めで東京の大手銀行系カード会社に就職しました。それが、「使った分だけ後払い≒先用後利」のビジネスモデルの会社だったわけです。以降、キャッシュレスがライフワークになりましたので、何とも不思議なご縁です。
余談ですが、「富山って、どこにあるの?山陰地方?」と真面目に聞く同僚・先輩が多く、学歴コンプレックスに追い打ちをかけられたものです。ところが、今では幸福度ランキング上位の有名県になりました。魚も酒もピカイチです。
※下記資料は東洋経済オンラインまた、母校は医学部を擁する総合大学に発展し、多くの人材を輩出しています。
今回のまとめ
元禄3年(1690年)、加賀藩から分藩された富山藩第二代藩主・前田正甫公が参勤で江戸城に登城したおり、福島の岩代三春城主・秋田河内守が腹痛を起こし苦しむのを見て、印籠から漢方薬の「反魂丹」を取り出して飲ませたところ、たちまち平癒したことから注目され、以降薬売りは富山藩の奨励産業になったとあります。
ちなみに、「反魂丹」は、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させる薬という意味があり、当時の医療レベルにおいて際立った効能があったようです。薬売り業のおかげで、貧乏な富山藩の財政まで、瀕死状態から蘇りました。
創業から300年を超えた今でも、配置薬業者は「売薬さん」と親しまれ健在です。富山では、“クレジットカードは借金”と呼ぶ人が多いのに、「置き薬は借金」とは言いません。不思議です。
ちなみに、日本最初のカード会社は㈱丸井ですが、創業者青井忠治氏は富山県小杉町出身です。丸井グループのフィンテック事業を担うエポスカードは、数多くの国内カード会社の中でも割賦販売をメインに抜群の収益力を誇ります。もちろん、収益至上主義ではなく、消費者目線が全社一貫しており、富山の薬売りのDNAを強く感じる企業です。
幕末に、全国から集めた最新情報と財政面で薩摩藩をしっかり支え、明治維新の原動力になった富山の薬売り。
どうしてそのような凄まじい精神エネルギーが産まれたのか、その謎解きができれば、未来のマネーイメージが少し浮上してくるような予感がします。しかし、
「富山藩が幕末に薩摩藩を支えた伏線は、おそらくその270年前の関ヶ原の戦いにまで遡らないと謎が解けないのでは?」
というのが現在の私の仮説です。
冒頭でも書きましたが、歴史は数百年単位で解釈しないと真実が見えないものだと、最近つくづく思うからです。
大きな危機に瀕する世界が、英知を結集して反魂・再生することを祈りつつ本稿を書いています。
次回もご期待ください。
<補足>
今回の執筆にあたって、地元資料を沢山拝読しました。
いずれも富山の薬売りへの愛情を感じるものばかりです。
引用はしませんでしたが、下記の「県民カレッジテレビ」サイトは、大変参考になりました。厚くお礼申し上げます。
https://www2.tkc.pref.toyama.jp/contents/furusato/tvkouza/text-index.html