著者:小河 俊紀(おがわ としのり)
はじめに
前回は、「明治維新を支えた越中商人➀」と題して、NHKの番組をヒントに、近代日本をこじ開けた影の功労者である富山の薬売りを、私なりに考察しました。
結果、今回も多くの知人からアップ直後に感想をいただきました。「地味な富山のイメージが大きく好転する内容だった」という肯定が大半でした。
富山出身者として、それはもちろん嬉しい事でしたが、率直な質問もいくつかいただきました。
1) 旧秀吉派の重鎮だった島津(薩摩)、毛利(長州)が、関ヶ原の戦いの結果、徳川政権下270年間冷遇され続けたことへのリベンジが明治維新か?
2) 富山の薬売り商人が薩摩を支え、明治維新に加担した背景は何か?
3) 富山藩自体、元禄時代初期は窮乏していたのに、なぜ昆布の中国密貿易で儲けず、手間のかかる売薬に励んだのか?
印象的だったのは、この3点でした。こういう意見をスピーディに返していただけるのが、ネット連載の醍醐味です。
専門分野以外浅学の私にとって、原稿執筆はトンネルを掘る作業に似ています。読者の皆様からいただいたご意見等を反芻(はんすう) していると、ある種漠然としたゴールイメージが先ず脳裏に降りてきます。 妙な言い回しですが、“降りてくる”としか表現できません。具体的な道筋は、書き始めた後見えてくる場合が多いのです。
インスピレーションを仮説として、その論拠を多角的に探り、仮説の正しさを割り出していく手法は科学と矛盾しませんので、この執筆スタイルを何卒ご了承ください。
なお、質問2)3)に対する答えは、心当たりのキーワードはあるものの、連載の核心に関わる部分でもあり、正確を期すため現在いろいろ調べております。次回以降徐々にひも解いていきますので、少しお待ちください。
今回は、関ヶ原という中世の大きな戦が舞台です。富山の薬売りと明治維新の関係を追う前に、「関ヶ原の戦いと明治維新全体に何か因果関係があるのか?」という質問1)に絞り、連載3回目の今回タイトルは、急遽「関ヶ原の戦いと、明治維新」としました。
本来でしたら、今回は「明治維新を支えた越中商人➁」という続編タイトルになるのですが、それはこのテーマをクリアすれば見えてくるはずです。少し先送りさせてください。何しろ、時空横断的な連載ですので・・・
関ヶ原の戦いの真実
関ヶ原の戦いに関する関連書籍、サイトをいろいろ調べました。
さすがに、1600年代以降の日本を大きく塗り替えた合戦だけあって、沢山の関連資料・歴史解釈があります。
いくつかの文献の中で、日本史資料研究会の近刊「関ヶ原の大乱、本当の勝者」(朝日新書、2020年6月初刊)が目に留まり、すぐに買い求めました。冒頭、「関ヶ原に関する従来の定説の多くは一次情報ではなく、史実とは違う」旨の指摘は驚きでした。(P.11~13)
同書によると、徳川ひいきの江戸時代の作家が一般大衆向けに感動的な小説として関ヶ原の戦いをいろいろ脚色し、それが史実のように定着してしまったとのことです。近年まで学問的な検証と修正がしっかり行われなかったのは、第二次大戦後、過去の軍事史研究は ほとんど封印されてきたのだそうです。
中でも、顕著な事例は、この戦いの命運を左右した有名な小早川秀秋の寝返り「問鉄砲」です。
鶴翼の陣を敷いた石田三成方の軍勢は午前中に善戦し一進一退の攻防であったが、この戦況に業を煮やした家康が、旗色を鮮明にしない小早川秀秋の松尾山の陣に鉄砲を撃たせたところ、小早川は家康方につくことを決断して寝返る。小早川が一気に松尾山から駆け下りて石田方の大谷吉継隊を攻撃、不意を突かれた石田方軍勢が瓦解して潰走したため、戦いの決着はあっけなくついてしまった。
このあまりにも有名な「問鉄砲」のエピソードは、不動の歴史的事実として現在でも広く信じられているが、実はこのストーリー展開の史料的根拠は、一次史料(同時代史料)ではなく、江戸時代の軍記者(通俗小説)によって創作されたフィクションなのである。
前記「関ヶ原の大乱、本当の勝者」代表執筆者である別府大学白峰旬教授の記述P.9~10ちなみに、白峰教授の研究では、小早川秀秋は、開戦と同時に裏切っていたのが真相だそうです。
やっぱり、歴史は権力を取った方が改ざんするものなのでしょうか・・?
本稿も、情報源の信頼性を厳選しながら、極力正確に進めていきたいと考えます。しかし、情報過多になると「マネーの未来」というテーマ本筋からはずれる怖れがあるので、必要最小限の情報量に絞ります。また、個人的実体験を適宜織り込む都合上、多少の主観が入るのはご容赦ください。
関ヶ原の戦いと明治維新の因果関係資料
私は、前回稿のまとめ段階で「富山藩が幕末に薩摩藩を支えた伏線は、おそらくその270年前の関ヶ原の戦いにまで遡らないと謎が解けないのでは?」と書きました。もちろん、ある程度の根拠があるもののほとんど直観でした。今回執筆にあたり、いろいろ調べるうち、明治維新と関ヶ原の戦いの関連性に触れた解説資料がいくつか見つかりました。
中でも、ハーバード大学アルバート・クレイグ教授の見解は、さすがに視野が大きく、本質を突いています。
幕末の倒幕運動の根底にあるのは、徳川幕府体制に対する長年の恨みです。1600年の関ヶ原の戦い以来、外様藩は、領土を減らされ、幕府から冷遇されていました。江戸時代、外様藩の多くは力を失っていきましたが、経済的に繁栄した藩もありました。それが長州と薩摩です。この2つの藩が明治維新を成就させる大きな原動力となったのも、積年の恨みに加えて、経済力と軍事力(武士)の両方を備えていたからです。つまり「藩のサイズ」が大きかったのです。
(出典:ダイヤモンド・オンライン)世間一般では、関ヶ原の戦いとは、徳川家康をリーダーとする東軍VS石田三成をリーダーとする西軍の天下分け目の戦いとして単純化され、徳川家康は官軍(正義)であるという神格化されたイメージが定着しています。
確かに、徳川家康が1603年江戸幕府樹立で戦国乱世に終止符を打ち、1868年大政奉還までの265年間も天下泰平の世と文化の爛熟をもたらしたのは事実です。世界史レベルでも、称賛に値する大きな功労(光)と思います。
一方では、西軍として 参加した敵方の有力武将を抑え込むために、石高の減封、国替え、参勤交代、政略結婚などの強権的な介入策を多用し、地方 諸藩の体力を奪った歪み(影)も長い時間をかけて蓄積していったはずです。
例えば、鎌倉時代に源頼朝の側近だった大江広元を祖とする中国地方の名門毛利輝元は、豊臣政権では国政を動かす五大老でした。西軍の実質的総大将として参戦しましたが、敗戦によって大老職を解かれ、前述の通り所領を120万石から36万石へ一気に減封されました。
一方、これも源頼朝の血を引くと称される南九州の名門島津義弘も、西軍として300名で参戦し、西軍最後の陣として奮闘しましたが、80,000名の東軍に包囲されてしまいます。 捨て身でこれを正面突破、退却に成功した武勇伝が有名な 「島津の退き口」です。しかし、側近ふくめ220名の戦死者が出て壊滅的でした。その勇気を 敵軍家康から称賛され、幸い減封されずに済んだものの、本当に辛い敗走だったと想像されます。
また、加賀藩に次ぐ 90万石の大藩であったため、江戸中期に幕府から無茶な工事要請を受けたことがあります。莫大な経費と犠牲者を出した 「宝暦治水事件」です。藩として大きな痛手となりました。
江戸幕府は,1753(宝暦3)年に薩摩藩に木曽川治水工事の御手伝普請を命じました。薩摩藩は,平田靱負を総奉行に任じ,藩士・足軽以下約千人を派遣しました。工事は約1年3か月で完成しましたが,大榑川洗堰工事などの難工事などのため,約40万両の経費がかかり藩財政は大きな打撃を受けました。また工事中の自害・病死等の犠牲者も薩摩藩関係者だけで80余名にのぼりました。工事検分終了直後,平田靱負は大牧村役館において自刃したと伝えられています。
(鹿児島県の公式ホームページより引用)明治維新は、「長い鎖国体制によって近代化から取り残された日本を改革すべき」という若き志士たちの義憤から生まれました。
一方で、誇り高き名門毛利家(長州)と島津家(薩摩藩)の遺恨が、270年間生き続け、欧米列強の圧力で徳川政権が揺らぎ始めた幕末にマグマのように噴出し、維新の原動力になったかもしれません。
関ヶ原の戦いの官軍であり勝者だった徳川幕府は、坂本龍馬がつないだ薩長同盟中心の討幕派によって賊軍となり、敗れました。
それが明治維新とすれば、歴史の皮肉というしかありません。
忍者寺
読者の皆様は、忍者寺をご存知でしょうか?
実は、古都金沢市に所在する日蓮宗系の古いお寺です。
名称からイメージされるのは、日光江戸村のように観光用に作られたエンターテイメント施設のようですが、実際はただならぬ緊迫感溢れる本物の歴史的遺産なのです。
「忍者寺」と呼ばれ、落とし穴になる賽銭箱、床板をまくると出現する隠し階段、金沢城への抜け道が整備されていたとされる井戸などの仕掛けが、寺のあちこちで見られます。創建当時、徳川幕府と緊張状態にあったため、襲撃に備えて出城・砦の役目を果たしていました。外観は2階建てですが、実際は7層になっていて、23部屋と29階段もあると言われています。迷路のような内部をガイドが案内してくれます。事前の予約が必要です。
(金沢観光協会ホームページ 「金沢旅物語」からの引用)短い文章ながら、このお寺の担ってきた過去の重い使命が伝わってきます。
敬虔な信仰の場所であると同時に、何と徳川幕府、そして隣の譜代大名越前松平藩からの挟み撃ち攻撃に備える要塞でもあったわけです。金沢城と地下でつながるトンネルまであり、中途半端な用心ではありません。私は、15年くらい前に観光で館内を隈なく見学したことがあります。大学卒業以降、金沢に関する知識は深化していなかったので、このお寺の 複雑 巧妙な構造を初めて目の当たりにして大きな衝撃を受けました。確かに忍者屋敷のようであり、 むしろそれ以上の迫力でした。
日蓮聖人の法孫・日像上人作の祖師像を安置する。寛永二十年( 1643年)、三代藩主前田利常公の命により、城内にあった祈願所を移し、運上町に創建された。前田利常は当時すでに隠居し小松に居を構えていたが、四代藩主光高の後見人として依然としてその権力の座にあった。当時、加賀藩は百万石の禄高を誇る外様大名の雄として徳川幕府から常に監視下に置かれ相当の緊張状態にあった。実際、幕府内では加賀征伐の計画すら存在したという。こうした背景にあって、利常は金沢の街をはじめとして、幕府の軍勢を迎え撃つ為の態勢を整えていった。
(妙立寺HPより引用)母が生前自慢していた加賀藩の穏やかなイメージとかけ離れていました。 「ここまでして徳川政権から加賀藩を必死に守ろうとした前田利常公とは?」 。
今振り返ると、この出会いが、本稿連載につながる大きな原体験だったかもしれません。
徳川家康と前田利家・利長の確執
小京都として、雅なイメージが強い加賀金沢ですが、関ヶ原の戦いの前後、二度にわたり藩の存亡に関わる徳川家との激しい確執があったことは、それほど知られていません。
一度目は、豊臣秀吉死去直後の「慶長の危機」。
寛永4年(1599年)、秀吉側近5大老の一人、前田利家は 嫡男利長とともに 徳川家康の専横ぶりをいさめ、かなりの緊張関係に陥りました。周囲の人望が高かった利家はほどなく病死し、後ろ盾を失った利長は窮地に。家康に和解を申し出で、関ヶ原の戦いでは 援軍として東軍に参加した結果、北陸の領地を20万石加増され120万石となったものの、五大老の地位を奪われ、外様大名として国政から実質的に外されたのです。
二度目の危機は、「寛永の危機」。寛永8年(1631年)に起きた金沢の大火で焼失した金沢城の再建や、他国より船舶を盛んに購入する等の動向に対し、利長から藩主を継いだ前田利常に徳川幕府から謀反の嫌疑をかけられたこと。
要は、織田信長・豊臣秀吉直系の重鎮であった前田利家を始祖にもち、徳川家に次ぐ巨大な石高を有していた加賀藩が、徳川幕府にとっては絶えず 目障りな脅威であり、スキあれば取り潰したい存在だったのです。
加賀藩が徳川幕府から受けた五大老(国政参加権)のはく奪は、長州の毛利輝元が受けた仕打ちと似ており、前田利長・利常はさぞ無念だったと思われます。
前田利常の深慮遠謀
前田家三代目当主で加賀藩二代目藩主前田利常は、鼻毛を丸出しにしてバカ殿と陰口を叩かれたこともあるそうですが、実際は、治水や農政事業などに注力し「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほど類い稀な名君だったようです。
実際、私は妙立寺を現地で拝観した当時、「慈悲深い名君だったはず」と直観しました。なぜなら、本堂の後部中二階に8畳ほどの向こう桟敷(むこうさじき)がありますが、そこへ利常公は時折密かに足を運び、一般庶民と共に藩の平穏を祈念していたと伝えられます。身分差別の厳しい時代に、藩主が一般人と礼拝を共にするのは、強い胆力と深い慈悲が要ることです。
おそらく、バカ殿と陰口を叩かれる行動をとったのは、幕府の警戒を解こうとする賢明な演技だったのでしょう。
さらに、「武芸より、美術・工芸・芸能を大切にしたい」として、産業・文化を奨励しました。ちなみに、加賀藩が江戸時代に育んだ独自の能楽に「加賀宝生(かがほうしょう)」があります。質実剛健な宝生流をベースに、庶民にまで普及した流派です。
また、蒔絵や漆器には、高い芸術性の香りが漂います。
まとめ
これで、今回は一旦終了しますが、これからが本題です。
「幕末の加賀藩は日和見主義。最初は幕府軍、その後風向きの変化で新政府軍に付いた」という通説以外、印象的な文献は今のところ見当たりません。しかし、これほどの政変に、幕末最大の加賀藩が単なる風見鶏だったのでしょうか??
次回は、「明治維新を裏側で支えた存在が、加賀・富山両藩ではないか?」という私の仮説に基づき、その時代背景を追いかけてみます。
ご期待ください。