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マネーの未来
第4回「加賀藩の参勤交代と、幕末財政」

著者:小河 俊紀(おがわ としのり)

カード研究家。
1972年富山大学経済学部経済学科卒業。(株)日本クレジットビューロー(現ジェーシービ)入社。カード基幹業務全般に従事。総務部調査役。1990年ヤマハ(株)入社。製造・卸・小売業における顧客囲い込み戦略推進。2008年に経営コンサルCard Seekを創業。現在に至る
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はじめに

前回は関ヶ原の戦いと明治維新には因果関係がある、との仮説を展開しました。関ヶ原の戦いで徳川政権から逆賊として扱われた薩長が、明治維新では官軍としてけん引力になった連続性を書きました。アップ直後にいただいた感想には、「視点が新しい」という嬉しい評価もある一方、「関ヶ原の恨みだけが明治維新の原動力だったのだろうか?」という鋭いご指摘もありました。

もちろん、私も恨みがすべてとは思いません。「国家の混乱を憂う若い志士たちの大義が直接的な起動力だった」と信じています。青年の純粋さと情熱がなければ、時代は容易に変わりません。

ただし、世界史を観ても、個人間はもちろん、国と国、民族と民族、企業と企業など、組織間の激しい対決が数十年~数百年も尾を引き、後遺症を引きずる例が実在するのも現実です。

例えば、OECD幸福度世界ランキングで常にトップクラスを維持するデンマーク、スウェーデンなど北欧諸国は、9世紀から始まった北方ゲルマン人(ヴァイキング)の勢力拡大と、250年間にわたる凄まじい戦いの舞台となり、それが今の秩序を形成したといいます。

人々の精神性は、老若男女を問わず自分が関わる集団と深く綾(あや)成(なし)ており、ひとつの劇的体験について短時間で記憶が消えていく場合もあれば、逆に次世代まで長年醸成(じょうせい)を続け、何かの引き金で思わぬ形で吹き出すこともあります。

そういう視点も含め、遠い過去から現在を振り返ると、歴史解釈に幅が産まれ、新しい未来が見えてくるのではないでしょうか。

これまでの調査経過

毛利家(長州)と似た辛い歴史を持ちながら、幕末最大規模の加賀藩は、なぜか態度が曖昧で、新政府軍・幕府双方から「日和見主義」と非難されました。幕末の加賀藩、そして日本全体に何があったのでしょうか?

(出典 : ダイヤモンド・オンライン

薩長と違い、幕末加賀藩の維新活動に関する資料は多くありません。その実態をわずか1ケ月で解明するのは、歴史家でもない私には生易しいテーマではありませんでした。 猛暑の中、今回の “トンネル掘削作業” は本当に難儀しました。それでも、幕末や加賀藩の歴史を詳述した4冊の専門書にたどり着き、精読しました。

1冊目が、加賀藩が参勤交代にいかに膨大な時間と経費、労力を費やしたかの詳細をまとめた「参勤交代道中記」(平凡社、もと金沢市立図書館副参事 忠田利男著)、 2冊目が、保守的な幕府支持派の第12代加賀藩主前田斉泰(なりやす)と、尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張し長州に共感した加賀藩最後の藩主前田慶寧(よしやす)父子の相反する軋轢(あつれき)を丹念に描いた「前田慶寧と幕末維新」(北国新聞社、石川県立博物館長 徳田寿秋著)。

3冊目が、「明治維新は、薩長の下級武士による悲惨なテロ(クーデター)であり、その後の太平洋戦争と敗戦をもたらした」とする新政府批判の内容の「明治維新という過ち」(毎日ワンズ、作家 原田伊織著)。江戸幕府擁護の立場です。

そして、4冊目が「加賀藩の明治維新」(有志者、宮下和幸著)です。幕末の加賀藩を巡る新しい解釈です。

とりわけ、昨年6月の新刊「加賀藩の明治維新」 (375ページ、税別6,600円)は新鮮でした。
価格もさりながら、金沢大学の博士号を取得した論文をベースに過去20年の研究成果を集大成したという筆者の熱意がしっかり伝わってきます。
骨子は、「加賀藩は、単なる日和見主義ではなかった」という主張です。一般の通説への反証です。朝廷の大きな歴史的影響についての解釈は、前掲「明治維新という過ち」と近似しています。

新政府か徳川家かといった「日和見」的な二択の発想ではなく、朝廷尊崇の貫徹と徳川家支援の挫折としてまずは理解されるべきであり、二択の発想は藩のなかで構築された論理ではなく、新政府が意図的に創出したものである

同書P,359より抜粋引用

「もともと、前田家では代々朝廷を崇(あが)める「尊王」が絶対的藩是(はんぜ)(憲法)であり、徳川政権が朝廷から征夷大将軍として権威を付与された現実にもとづいて、270年間幕藩体制に忠実に従ってきたので、単なる日和見ではない」との解釈です。

慶応3年(1867年)になって将軍徳川慶喜が突如朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)(幕府の政権放棄)したため、加賀藩の幕府支持根拠は崩れました。いわばハシゴがはずれてしまったのです。

当時は、加賀藩に止まらず、時代の動向が読めず右往左往した藩が大半だったようで、加賀藩は地理的に京都の朝廷と江戸の幕府の中間に所在し、ともに姻戚関係が濃く、しかも全国最大の大藩なのでその動きが絶えず注目されていました。

最終的には新政府軍側として戊辰戦争に参加しますが、当初は簡単には動けなかったのです。

一方、薩長は幕府から目の届きにくい西日本という地の利も奏功し、朝廷の支持を巧みに取り付けました。公家の岩倉具視と連携して 15歳の明治天皇を抱き込み、官軍の御旗を掲げたことで、事態は一変しました。

江戸時代を通して、全国大名に対する朝廷の隠然たる影響力がそれほど大きかったと言えます。私見ですが、家康が開闢(かいびゃく)当初から多くの介入策を諸藩に強制した理由ではないでしょうか。

明治維新の伏線:江戸時代諸藩の構造的窮乏

薩長と加賀の歴史を調べているうち、私は「関ヶ原の戦い直後(江戸初期、1600年ころ)には財政的余裕のあった各藩財政が、1700年ころから徐々にひっ迫をはじめ、幕末に至るまでひどい窮乏が続いた史実」を知りました。

減封されなかった大藩加賀藩、薩摩藩でさえそうですから、長州をはじめ地方諸般の窮乏は、江戸後期では目を覆うものがあったようです。ちなみに、米沢藩を事例に、その窮乏要因を解析した論文に、もと大阪大学加藤国男経済学部教授の「米沢藩の財政窮乏化の過程~手伝い普請と凶作の実態と影響」があります。(2019年9月)

「米沢藩が財政窮乏化するのは藩財政が恒常的に赤字だったからだが、他の全国諸藩もそうだった。それは、スライドに示すように、幕府が各藩の蓄財を許さず、収入を上回る出費を課したからである。つまり、江戸に藩邸を与えそこに藩主の妻子を置かせ、1年ごとに藩主が領地と江戸を往復する参勤交代制(往復の旅団規模などが表石高で決められた)を敷き、江戸での幕府との付き合いで多大な出費が伴う仕組みを強いたからである。1692年の米沢藩の財務データによると、領外経費は2万両超と推定され、領内経費1.6万両を上まわっていた。

さらに幕府は、後にみるように幕府成立初期に多かったが、各藩に手伝い普請や軍役を課し、赤字が拡大し各藩の財力を弱めることになった。
収入面では、何年かおきに起こる凶作の影響が大きく、年貢収入減少が財政赤字を拡大した。
このように、大きな領外経費が財政赤字の構造的な原因で、突発的な手伝い普請(含む軍役)や凶作が財政赤字を増大した。本研究は、手伝い普請と凶作がどのような頻度で起き、どの程度財政に影響を与えたかを分析することを目的とする」

つまり、幕府への参勤交代と、いろいろ要請される手伝い普請の過大さに加え、たびたび訪れた凶作が輪をかけたのが、全国諸般財政の恒常的窮乏でした。当然、しわ寄せは庶民(農民)に回り、農民は重税に苦しみました。これが、明治維新の伏線かもしれません。

加えて、1853年のペリー来航をはじめとする欧米列強の揺さぶりで物価が高騰し、遂には長州を旗頭とする倒幕運動を容認する世論背景となりました。

参勤交代制度

私もそうでしたが、参勤交代と言えば、時代劇映画の「下にぃー、下にぃ―」という警蹕(けいひつ)(掛け声)の優雅な大名行列をイメージして、「日本は長閑(のどか)だったなあ」と思う方が多いでしょう。

ところが、実態は加藤教授の解説の通り、幕藩体制を維持するための過酷な人質政策でした。強固な幕藩体制の基礎でありながら、後半は政権の終局を招いた諸刃の剣でした。

参勤交代は、江戸からの距離に関係なく、石高1万石以上の藩主に課せられた毎年の恒例制度でした。例えば、江戸から1,400キロも離れた薩摩は、何と片道50日間かけて江戸にたどり着いたそうです。交通手段は基本的に徒歩でしたから、効率が悪いだけでなく、途中に藩主・お供の急病や、激しい風雨やがけ崩れ、洪水などの天災に巻き込まれる危険も常につきまといました。さすがに、幕末の文久2年(1862年)、当時まだ幕府側についていた薩摩藩最高実力者の島津久光は京都に上洛し、参勤交代の緩和等の幕政改革を申し入れたほどです。

加賀藩の参勤交代

※大名行列絵巻(作品リストNO.2) だいみょうぎょうれつえまき 縦31・5 横346・0cm 江戸時代 金沢市立玉川図書館近世史料館 

参勤交代は、もともと関ヶ原の戦いの直前に、加賀藩藩祖の前田利家の正室を人質とした徳川家康の加賀藩牽制策(けんせいさく)として始まり、寛永12年(1635年)に「武家諸法度(ぶけしょはっと)」として全国大名に制度化されたものです。

従って、最大の大藩である見栄もあって、加賀藩の参勤交代に掛けた経費と労力と時間は並大抵ではなかったようです。

下図のとおり、加賀から江戸へ向かうルートは約3種類あり、金沢-富山-上越-長野-信濃追分)を経由して中山道(軽井沢-高崎-大宮⇒日本橋)を通るルートが基本でした。

(出典:「三道楽ノート

前記「参勤交代道中記」によれば、江戸までの道中は約480キロ2週間に及び、臣下の侍、足軽、駕籠かき、医師、職人他総勢2,000~4,000人がお供をし、その人件費や途中宿泊費、ほか駕籠と多数の馬の維持費、薬代、幕府への手土産・上納金など多岐にわたる諸経費が毎回5~6億円、準備だけで50日間もかかったといいいます。前掲の金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵「大名行列絵巻」は、その一部を描写したものですが、行列のあまりの長さに、有名な俳人一茶は詠みました。

「跡共は 霞ひきけり 加賀の守」

後方が霞んで見えないくらい長い行列、という比喩です。

※出典:田畑勉「天保・弘化期における加賀藩財政と藩債返済仕法の構造」 『史苑』1974年4月号)
※当時の銀が1貫あたり現在価値133万円として、小河が概算

何と、加藤国男教授の指摘通り、加賀藩も全体支出の約6割が江戸滞在費でした。

お陰で、確かに江戸文化の繁栄や、江戸と地方の文化交流を生み出した功績はありますが、関ヶ原の戦い直後は潤沢だった加賀藩の蓄えは早々と底を突き、天明5年(1785年)には、加賀藩十数年分の歳入に等しい累積赤字に陥ったそうです。内訳は下記です。

※出典;「参勤交代道中記」(平凡社、忠田敏男著)。
※当時の金1両は現在価値で10万円、銀は1貫133万円、米は1石8万円と換算し、筆者概算)

今回のまとめと、次回テーマ

今回は、本来は「仮説として、加賀藩・富山藩の明治維新への貢献をあぶり出していく」ことが主題でした。現時点の私の途中理解としては、「朝廷・幕府と密接に連絡を取りながら内部議論を重ね、尊王の藩是により藩として過激な行動を避けた結果、弱小諸藩の無用な混乱を鎮める貢献はあった」ように思います。

一方、江戸末期の加賀藩の内部事情を調べるうち、映画「武士の家計簿」でも描かれたように、全国諸藩とも共通する財政的逼迫が垣間見え、明治維新を招いた時代背景全体を詳しく掘り下げることになった次第です。

(GMO「プリ画像」)

「組織、個人を問わず、収支バランスが大きく崩れた時、否応なく方向性が変わり始める・・・」。それは、新型コロナ禍で事業や生活の基盤が揺らぎ始めた今だからこそ、未来に向けた教訓と思えます。

ちなみに、私自身は蕎麦打ちを趣味としているくらい江戸文化は好きです。270年かけた文化・芸能・工芸の爛熟(らんじゅく)は世界一流であり、単純に暗い封建時代と決めつけているわけではありません。誤解なきようお願いします。

次回は、明治維新を生み出した薩長・加賀藩の幕末対応における地域特性について掘り下げてみます。なぜなら、今回の執筆中に「幕末での大数の法則」に気付いたからです。

十分な標本数の集団を調べれば、その集団内での傾向は、その標本が属する母集団の傾向と同じになること。もともとは確率論の定理

グロービス経営学院」ホームページ

薩摩と長州と加賀は、関ヶ原以降似たような苦難の歴史ながら、対処する住民特性=DNAがかなり違うように思えます。

藩全員の個性ではないにしても、原田伊織氏の表現によれば幕末の薩長は藩としてまるで過激派集団の様相です。(同書、主にP66~87)。

一方、(私の解釈では)加賀藩は “総領(そうりょう)の甚六(じんろく)” のようにおっとりしたお人好し集団の様相でした。

地域特性(県民性)の側面で、加賀・富山の明治維新を再解釈するのも意味がありそうです。

次回もご期待ください。

PROFILE

小河 俊紀