著者:小河 俊紀(おがわ としのり)
はじめに
過去の歴史から未来マネーの在り方を探すため、前回は、「加賀藩の明治維新への貢献をあぶり出していく」ことが主題でしたが、執筆途中で江戸幕府が倒れた伏線として「加賀藩はじめ全国諸藩窮乏の背景」が浮かび上がってきましたので、そちらをメインに歴史の因果を解析してみました。
豊臣秀吉時代に重鎮の名門として栄えた薩摩・長州・加賀藩が関ヶ原の戦いで徳川政権から降格、もしくは減封処分を受け、外様大名として江戸時代に窮乏化しました。しかし、薩摩・長州は財政の黒字化に努め、幕末に積年の恨みを晴らすべく最新兵器を調達して倒幕運動に全力を挙げました。
一方、同じ辛酸をなめ幕府に恨みをもっていたはずの加賀藩は、ギリギリまで倒幕の態度が不鮮明でした。ために、新政府軍から日和見(ひよりみ)と非難されたのです。
しかし、前田家では代々朝廷を崇(あが)める「尊王」が絶対的藩是(はんぜ)(憲法)であり、幕末の混乱で徳川幕府に対する朝廷の意思が捉えづらく判断が遅れただけであり、日和見という言葉から浮かぶ「保身」とは、意味が違うと思われます。
(参考文献:宮下和幸著「加賀藩の明治維新」有志社)
しかし、その後の資料調査過程で「それ以外に別の要因、例えば、県民性のような地域特性も関係するのではないか?」と私は思いつきました。今回は、その仮説検証経過を書きます。
半沢直樹の謎
TBSの話題ドラマ「半沢直樹」最終回(9月27日放送)は、リアルタイム視聴率とタイムシフト視聴率を合わせた総合視聴率で、 44.1というお化けドラマとなり、放送終了後には“半沢ロス”と いう社会現象まで生みました。
原作の面白さや、堺雅人・香川照之など芸達者なキャスティングの絶妙さに加え、新型コロナで沈む社会全体のフラストレーションが根にあるのでしょう。
上司の中野頭取と大和田常務から、後継頭取抜擢をほのめかされた半沢直樹が、エンディングシーンでニヤッとほほ笑むシーンが何とも謎めいて意味深(いみしん)でしたので、続編再開を匂わせているのかと受け止めました。
同時に、石川県人の一般的な特性を知る視聴者には、「半沢直樹の出身は金沢」という設定に違和感(謎)を覚えたかもしれません。
理由は、2点あります。
実家稼業設定
金沢には伝統的な工芸品メーカーは沢山ありますが、ネジ製造の町工場は極めて珍しい。
人物設定
父の事業と人生を奪った銀行へのリベンジとして、その銀行に就職し、銀行経営陣、さらには国家要人さえ敵に回す正義感・激情・粘着質は、むしろ山口県人や高知県人気質のようです。
原作者池井戸潤氏の意図は分かりませんが、本稿を読み進めると、より理解いただけると思います。
面白い歴史資料
前回引用した書籍、「前田慶寧(よしやす)と幕末維新」(徳田寿秋著)によれば、慶応3年(1867年)7月8日、イギリス人外交官ハリー・パークス率いる三隻の軍艦が加賀藩七尾湾に現われて能登島に上陸し、陸路で金沢を訪れた記録が残っています。幕府が、安政5年(1858年)に欧米5ケ国と結んだ修好通商条約で、日本海側では新潟が開港予定地となっていたものの、貿易港として適さないため、その代替地と して七尾港が有力候補となった経緯でした。
しかし、七尾は加賀藩内政の重要地点でしたので、この開港案は結果的に不成立となりました。
幕府役人が同行した視察団一行が金沢経由で大阪に向かう道中、通訳として大活躍したのが、アーネスト・サトウでした。
当時の加賀藩と視察団側のやりとりの詳細は、後日アーネスト・サトウが著した「外交官の見た明治維新」(岩波文庫、坂田精一訳)、および彼と行動をともにしたフリーマン・ミットフォード著の「回想路」(今井一良訳論文)に詳しく記されています。
二人とも、接触した加賀人(武士、庶民)の温厚さに戸惑ったようで、ミットフォードは「回想路」でこのように記しています。
「加賀藩の侍は、薩摩や土佐人のような荒っぽい戦士ではなく、また、長州人の指導者の抜け目のない政治屋でもない。われわれが会った人たちは静かで、穏やかで、多分少しばかり時勢を見る目はないが、富裕であるようにみえた」
「加賀の国が大変富み、栄えていることに感動しないわけにはいかなかった。戸数二千の松任(まっとう)、二千五百の小松を通過したが、これらの町は皆、加賀侯(かがこう)の温かい血の通った政治の下にあり、彼らよりももっと幸せな住民は見出し難いことであろう」
多少の誇張はあるかもしれませんが、幕末の薩摩、長州、土佐、加賀の藩民気質を外国人の目で横断的・客観的に捉えた記録として、非常に興味深い資料です。
現在の県民性比較
それから1世紀半経った現在、これらの地域の県民性は一般的に どう認識されているでしょうか?様々な文献を調べましたが、正に「大数の法則」どおり、おしなべて似たような解説に落ち着きます。中でも、「ダイヤモンド・オンライン」の解説が分かり易いので、抜粋して引用します。
1) 山口県(長州)
270年近く続いた江戸幕府をひっくり返し、近代日本の扉を開いた明治維新。それを推進したのは薩長土肥とされているが、一番の中心は長州=山口県だという強い思いが、山口県人の頭にはある。(中略)
もともと中国地方全域を支配していた毛利氏に仕えていた人々が多いだけに、発想の幅も行動力も想像以上にスケールが大きい。それに見合った使命感・責任感もあるから、一国の大事も喜んで引き受ける。
2) 鹿児島県(薩摩)
なんとも特徴的な薩摩弁のせいもあってか、鹿児島県人は概して無愛想で無口である。口下手で、お世辞もけっして得意ではない。しかし、これは逆に言えば、あれこれ考えて口にするよりまずは行動という生き方を好むということだ。(中略)
鹿児島県は鎌倉時代から明治維新のときまで同じ殿様(島津氏)が治めていたという、日本でもまれなところである。しかも、江戸時代はほかの藩に対し鎖国体制を敷いていたから、一種独特の文化、思想が育まれた。郷土を愛する思いの強烈さ、同県人の先輩後輩の強い結びつきもそうだろう。保守的だが、三方が海に向けて開かれているから、細かなことにこだわらないおおらかさも目立つ。
3) 石川県(加賀)
石川県という名前より県都・金沢市のほうが知名度の点ではやはり上だろう。というか、ハイレベルの観光都市・金沢市あっての石川県だから、これはいたしかたない。そして、金沢といえば「加賀百万石」である。実際の石高は、120万石以上ともいわれるから、豊かな地域であったことは間違いない。 その誇りは今日もなお石川県人の気質に深く宿っているようである。人と争うことを好まないのもそうだし、「変化のない穏やかな生活がいちばん楽しい」と考えている人の割合が47都道府県で4番目に多い(NHK県民意識調査)ことからもそれはうかがい知れる。
石川県民の自己分析
私の従兄(いとこ)
つい先日亡くなった母方の従兄は、石川県白山市美川町で代々300年くらい続く旧家の17代目当主でした。先祖は、江戸時代から明治初期にかけ北前貿易最大級の拠点として栄えた当地で、北前船の船大工棟梁(とうりょう)(大型北前船の設計と建造を担う大工集団の親方)を務めました。敏腕のため、船主の信頼厚く幕末に大きな財を成したようです。
明治生まれの我が母は15代目当主の長女で、幼少期には大きな蔵がいくつもあり、身の回りを世話する侍女が何人もいたそうです。後年、近くの河川氾濫で機材・財産を失ったうえ、鉄道輸送の発達に押され廃業しました。当家最後の当主を引き継いだ従兄は、実直な公務員として長年要職を務め、72歳の生涯を終えました。
いつ会っても、ニコニコと笑みを絶やさず、温厚な人でした。その遺徳を偲び、新型コロナ禍の時期だというのに葬儀には現役時代の上司や仲間、友人が沢山焼香に駆けつけたそうです。私の知る限り、金沢に住む親戚は皆さん本当に温厚です。
加賀藩は、本当に窮乏していたのか?
ところで、「いくら温厚な気質があっても、薩長と同じくらい財政逼迫していた幕末の加賀藩民が、当時のイギリス人の目には裕福そうに映ったのはなぜか?」という素朴な疑問が生じます。
いろいろ調べた結果、「北前貿易で莫大な利益を上げた豪商が、御用金(上納金)、もしくは貸付金という形で藩全体を直接支えた」と、私は推定します。
その代表的な豪商が、有名な銭屋五兵衛(ぜにやごへい)です。
「銭屋五兵衛は安永2年(1773)11月25日加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれる。六代前の吉右衛門から両替商を営み、屋号を銭屋と称していました。
祖父から五兵衛を名乗り、金融業、醤油醸造業を営んでいました。
(中略)北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは、50歳代後半からでその後約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となる。加賀藩の金融経済の大切な仕事に尽くし、たびたび御用金の調達もいたしました。」
さらに、石川県白山市美川町湊公民館長 高崎政一氏論文「比楽湊・本吉湊(美川漁港)の みなと文化」によれば、
「本吉には多くの有力廻船商人がいた。しかし資料の遺存状況からその個々の経営の実態を知ることができるものは少ない。天明5年(1785)9月、加賀藩が出した天明凶作、飢饉による年貢減収と財政難に際し、領内の富格者に対して出した御用銀の上納を申し渡した。その中の高額上納者の中に本吉の廻船商人が6人含まれていることは、本吉の海運の隆盛ぶりをよく示している。
最高額は粟崎藤右衛門で銀3,500貫目、4番目に本吉の古酒屋(こざかや)四郎兵衛・明翫屋(みょうかんや)治兵衛の202貫目、そして明翫屋加兵衛ら4人の銀94貫目余となっている。また、『美川町史』によれば天明期、明翫屋治兵衛は連年にわたって藩に御用銀を上納したり、多額の貸付金に応じていたことが記されている。」
何と、最高額の粟崎藤右衛門は銀3,500貫目、現在価値にして42億円も上納していたことになります。当時の加賀藩の江戸滞在費97億円の4割相当の巨額です!
他に、幕末の天保年間に全国の長者番付で東の横綱・三井家(江戸)と並び西の横綱に格付けされた木谷藤右衛門(きや とうえもん)という豪商も、加賀藩財政を支えたと言います。
ちなみに、石川県能美郡には有名な勧進帳安宅関近くに、根上町(ねあがりまち)という人口1万6千人くらいの小さな町があります。
明治以降、立志伝中の人 帝国ホテル社長犬丸徹三(いぬまるてつぞう)氏、読売巨人軍からメジャーリーガーになった松井秀喜氏、延期になった東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の重責を担う森喜朗氏(もと総理大臣)という大物を輩出しました。
分野は違いますが、どの方も温和でありながら凄みがあり、石川県の懐の深さを感じます。
ちなみに、犬丸徹三氏は私の祖母のいとこにあたります。
犬丸氏は、奇しくもあの関東大震災当日(1923年9月1日)、支配人として帝国ホテル改築披露パーティの準備中でした。奇跡的に建物は無傷で、自らの判断で必死に宿泊客、及び近隣の大使館・住民の救済活動にあたり、ホテル本館設計者フランク・ロイド・ライトと帝国ホテルの国際的評価を一気に高めた、という逸話があります。
ともかく、日本有数の豪商達の巨額マネーに加え、現石川県全域と富山県の大半に至る広大な藩領地の田畑からとれる豊富なコメが、加賀藩を裏でしっかり支え、懐深い風土を育んだのは間違いないでしょう。
今回のまとめ
加賀藩をメインに、薩摩・長州・加賀三藩の関ヶ原から明治維新への過程を追いかけると、「歴史とは、数百年にわたって政治・経済・風土など様々な要素が重層的に醸成されていくものだ」と、あらためて痛感しました。
これらの考察を取り入れながら、中断していた「明治維新を支えた越中商人➁」に、そろそろ取り掛からなければなりません。
次回からの仮説キーワードは、ずばり“越中富山と情報活用”。
折しも、菅政権が誕生し、マイナンバーカード等の普及を目指す「デジタル庁創設」が政策の目玉となりました。
我が故郷富山県には、1996年から官民一体で地域のデジタル化に取り組み、パソコン普及率100%を達成した“電脳村(でんのうむら)”が実在します。また、2018年に実施したSNSに関するアンケートで、「富山県はインスタグラム利用率全国一」という調査結果もあるようです。(出典:モニタス)
「300年以上前に生まれた越中売薬独自の仕組みが、日本全体に普及し、明治維新を裏で支え、今も生き続けているのはなぜか?」と いうテーマで、深堀していきます。 次回もご期待ください。
<筆者からのお詫び>本稿2回目で、「母の生家は、北前貿易の豪商だった」という内容の説明をしましたが、現地の長老から「北前船大工棟梁だった」という情報を得ましたので、今回本文中で訂正しました。お詫びします。