著者:小河 俊紀(おがわ としのり)
はじめに
マネーの未来を時空横断的に展望しようとする当連載は、2回目から時代をあちこち飛びまくり、富山の置き薬(以下、地元の愛称である売薬(ばいやく)と略します)から関ヶ原の戦いにまで遡りました。相変わらず直観的仮説の検証をするためにトンネルを掘る作業の連続ですが、毎回、読者の皆様からいただく感想をヒントに少しずつ先に進み、今回から本筋に戻ってきました。
題して「明治維新を支えた越中商人➁」。
これまでの迂回の成果を生かし、書き進めたいと思います。
面白い題名の本と出合った!
連載をしていると、思いがけない本と出合うことが度々あります。Googleなどのネット検索だけでなく、その他新聞・雑誌広告やテレビで偶然の遭遇もあります。一瞬「これだ!」と感じた本は縁があるのか、実際に読むと面白いことが多いです。
今回出会った本は、その名も「富(とみ)の山(やま)の人(ひと)」(森田裕一著、経済界)。
富山人と富の山の人の掛詞(かけことば)も面白い。著者の森田氏は、先祖からノレンを受け継いだ現役の売薬商人だそうです。
著書(以下、本書)には、ご自身の半世紀の豊富な体験と、様々な知見が満載されています。
例えば、連載2回目で、私は富山の売薬を「使った分だけ後払い≒先用後利のビジネスモデルで、クレジットカードに近い」と簡単に紹介しました。それ自体は、おそらく間違いではないでしょう。
しかし、本書を読んで、その捉え方は一面的であり、先用後利とはもっと凄みに満ちた深い価値観であることを、初めて知りました。
売薬業が生んだ財界人
幕末から明治にかけて、富山が生んだ著名人は少なくありません。
例えば、旧富士銀行(現みずほ銀行の前身)の創設者であり安田財閥を生んだ安田善次郎氏、浅野セメントや日本鋼管等幅広い産業を生んだ浅野財閥の浅野総一郎氏、コクヨ創業者黒田善太郎氏、丸井グループ創業者青井忠治氏、そしてファスナーの世界市場の50%を占めるYKK創業者 吉田忠雄氏。いずれも、富山の売薬業の影響を強く受けています。
ちなみに、YKK創業者の吉田忠雄氏は沢山の名言を残していますが、以下の言葉が特に印象的です。
「気配りとは常に相手の立場に立って、物事を考え、何をするにも、もし自分が相手だったら、どうしてほしいかを考え振舞うことです。(中略)「いつも先を読んで用意しておくことが大事なのです」
「仕事儲け 人儲け」大和出版一見、陳腐な戒めのようですが、創業地富山の売薬の艱難辛苦の歴史に基づいているので、言葉の深さが半端ではありません。
先用後利とは、「先を読んで周到な用意をすれば、思わぬ災禍を防ぎ、後にしっかり利を生むことができる」というリスクマネジメントの極意でもあるのです。
実際、今とは比較にならないほどアクセスと治安が劣悪な江戸時代に、重さ20㎏もある5段重ねの柳行李(やなぎごうり)を担いで全国市場を徒歩で開拓し、毎年欠かさず定期的に顧客をフォローした努力は並大抵ではなかったでしょう。
富山の売薬商人は、当時の最先端医薬品を全国に運び、庶民の健康を護りました。さらに、地元富山藩だけでなく、行商先の諸藩の経済活性化にも貢献しました。例えば、当地の特産物を他藩に紹介する仲介者の役目です。
一方、高価な薬の現物や回収した利用代金を狙う盗賊に襲われるリスク、天災やケガ・急病のリスクが避けられません。さらに、森田裕一氏の本書によれば、「置き薬の商売が確立された江戸時代、売薬商人たちにとって、一番のリスクは営業を停止されることでした(本書P.40)」
店舗を持たない行商ですから、急な営業停止(差留(さしどめ))処分は、実質的な倒産を意味したのです。
こういった様々なリスクへの自衛組織が、「仲間組(なかまぐみ)」でした。詳細は後述します。
閑話休題
ここで、この差留処分に関する余話として、昭和50年(1975年)頃のカード会社営業部時代の私の体験を少し書きます。
当時まだ20代で若かったので記憶がやや曖昧ではありますが、行政当局(当時の大蔵省)から「銀行本体が系列の銀行系カード会社の会員募集・加盟店募集業務を行うことを自粛せよ」と通達が出た時期がありました。おそらく、中小チケット団体や信販会社保護の目的があったのだと想像します。
それに伴って、銀行員が通常業務でカード募集をするのはもちろん、カード会社社員が銀行支店の担当者と取引先企業に帯同訪問し、職域で会員募集するルートも断たれ、営業部隊は突然大きな販路を失いました。銀行への挨拶訪問さえ難しくなりました。
カード会員募集は、加盟店募集と並びカード会社の生命線でした。
昼間から、若い営業マンが行く当てもなく社内にブラブラしている姿ほど情けないものはありません。一日が終わり、居酒屋で同僚と飲むたび、「もしかしたら、会社は潰れるかもしれない?転職先を探そうか」という暗い話題ばかりしていました。
そこで、窮余の一策として数名でグループを組み、東京都心や郊外のテナントビル街に繰り出し、聞き覚えのある企業表示を頼りに飛び込み営業を2年くらい続けたことがあります。
お目当ての事務所責任者に名刺を提示して挨拶し、いきなり職域での勧誘活動を願い出ました。
もちろん、一喝で断られたことが多いですが、当時はビルのセキュリティ管理が緩やかで、就業時間中の個別勧誘は結構黙認されました。大手企業でも、昼間の休憩時間限定で許可がおりたことが少なくありません。そこまで持ち込めると、「なんだ!なんだ!」と物見高い社員の賑わいが起こり、印鑑さえあればすぐ申し込みできるので、1時間で10~20人の方が申込書を書いてくれました。
「クレジットカードって、どういう仕組みなの?」との質問には、勧誘時間が無くなるので、説明チラシを渡しておしまいでした。
今から考えると、かなり大雑把なセールスでした。
この手法は今では通用しませんが、間もなく所属課全体の活動パターンになり、獲得会員数の飛躍的増大となりました。
「一日200人にアタックし、最低100名にその場で申込書を書いてもらって会社へ持ち帰る」という目標を立て、訪問先の開門直後から消灯時まで、食事も抜きで何社も走りまわった記憶があります。
おまけに、決済銀行口座のないお客様には、最寄りの系列銀行支店の口座開設のお手伝いまでしました。一日でその支店の1ケ月分にも相当する新規口座数になり、支店長から感謝されたことも度々でした。
単に数だけの問題ではなく、その後企業提携方式はじめ銀行に頼らない種々の販路を開拓する大きな起爆剤になりました。ですから、門外漢の私でも売薬事業者の当時の緊張感の一端が少し理解できるのです。
先進的リスクマネジメント「仲間組」
NHKの「歴史秘話ヒストリア」でも触れられていましたが、富山の置き薬業者は、江戸時代に全国21ケ所を「仲間組」と称してグルーピングし、お互いの情報交流ネットワークを構成していたといわれます。
江戸時代は、財政難に悩む多くの藩で自国産業保護と財貨の持ち出し規制のため、他国行商人の商売を厳しく制限していました。富山の売薬は、全国どこででも商売ができる他領商売勝手という富山藩公認の通行手形交付されていたので、関所の通行等は容易でしたが、それでもひどい窮乏にあえぐ諸藩、特に薩摩藩の規制は厳しかったようで、計5回も営業停止処分「差留」を受けたそうです。当時の差留は、実質的に稼業の倒産を意味するものでしたから、薩摩専門の仲間組を構成して対応していたようです。
この仲間組組織がなければ、薩摩での営業だけでなく、全国の売薬が早期に終息していた可能性があります。
薩摩藩も、もし売薬商人を締め出し続けていれば、彼らが後に提供した北海道産昆布がもたらす中国との莫大な貿易利益も、全国諸藩の最新情報も、そして西欧の先端兵器も獲得できず、もしかしたら明治維新は起こらなかったかもしれません。仮に起きたとしても、まるで違う様相を呈していただろうと、考えられます。
詳しくは次回に書きますが、売薬業の卓越したビジネスモデルに益々興味が湧きます。
完全な商人
17世紀に活躍したフランス人で、ジャック・サヴァリという商学者がいます。「サヴァリ法典」の編纂者、複式簿記の提唱者と言えばピンとくる方が多いでしょう。
※出典:慶應義塾大学メディアセンターの機関誌『MediaNet』
売薬研究の第一人者として、我が母校富山大学経済学部名誉教授だった故植村元覚先生は、常日頃「富山の売薬こそ、サヴァリの説いた完全な商人の4条件に見事に合致している」という主張をされていたそうですが、富山県のホームページ「富山県薬業史」のむすび(P.8~13)に詳述されています
1)信用と信頼性
2)良い商品
3)市場調査
4)記帳と計理
ちなみに、「「富(とみ)の山(やま)の人(ひと)」著者の森田氏がお父さんから学んだ教えは、
「礼を尽くす」「売ろうとしない」「(顧客と)親戚づきあい」「研究熱心」「付加価値(+α)」「ルールを守る」「勝てる場所に行く」の7項目だそうです。(本書P.148)
確かに、「完全な商人」とかなり重なります。
そこで、富山県薬業史と森田氏の著書を参考に、売薬が完全な商人と評価される意味を私なりに再解釈してみました。
1)信用と信頼性
遠方から1年に2回しか訪れない旅人なので、売薬業者は顧客に怪しまれないための工夫をいろいろ実践していました。
例えば、訪問時期の厳守、こざっぱりした服装、丁寧な言葉遣い、やわらかい表情、珍しいお土産の持参、薬の出し入れ作法、訪問・退出の礼儀※,等。
※退出時に、お客様に背中を見せてはいけない。
2)良い商品
売薬は、もともと霊峰立山の山岳信仰に付随したものでした。霊験あらたかな神仏の功力があるとして信者に配布されていたのです。効能があった場合に、信者はお礼としてお布施をしました。
しかし、万一薬害で死者が出たりすれば、信頼は一気に崩れます。ために、富山藩は、薬種の仕入れや調合を正しく指導する「反魂胆役所(はんこんたんやくしょ)」という公的機関まで設置し、育成していました。
そこまでやった藩は他になく、富山の売薬を模倣した業者は品質が悪く、収支もあわないため長く続かなかったそうです。
3)市場調査
「使った分だけ後払い」とはいえ、商品セット丸ごと預けてくるわけですから、無担保の掛け売りのようなものです。
そこで、地域ごとの仲間組情報をもとに、販売対象の地域、個人の状況を事前把握し、地元の実力者(庄屋、村長)から順に配置をスタートしました。以降、その人たちが様々な協力者となってくれました。
また、既存の藩内同業者との無用な摩擦を避けるため、城下町(武士や町人の居住地域)での営業は避けたそうです。結果、貧しい農民に高度な漢方薬が届くことになりました。
使った薬の代金支払いは半年間据置き、農作物の収穫期に売薬業者が自宅まで回収に来てくれる、いわゆる“盆暮れ払い”ですから、非常に重宝され感謝されたようです。
4)記帳と計理
売薬商人が現代でも通用する最大の独自性は、「掛場帳(かけばちょう)」の存在です。掛場帳無くして、売薬業は語れません。
使った薬とその量、それぞれの薬の代金、使わなかった薬、この1年の薬代などに加え、支払い状況、消費量、家庭内全員の個別健康状態、地域の傾向、地図などが網羅されていたのです。
いわば、濃い個人情報履歴が詰まった世帯管理台帳であり、経理台帳でしたので、資産価値が高く、取扱商人の交代に際し現在価値にして数百万円から数千万円で譲渡されたそうです。
ちなみに、私が在籍した1970年代頃のカード会社の顧客台帳は、この掛場帳と似ているので、非常に驚きます。もちろん、取扱商品は薬限定ではありませんが、当時は、顧客データが電子化されていない時代なので、各種履歴はすべて手書きでした。顧客台帳は、レクトリーバーと称する大きな回転式書棚に格納されており、加盟店から高額商品の販売承認を求める電話照会がくるたび書庫を回し、台帳を取り出したものです。
まとめ
今回はここまでですが、一言だけ参考補記します。
私は商人ではなく、半世紀にわたりカード業界人として生きてきたのですが、いつの間にかサヴァリの学説に近い要素を学んだことに、今回初めて気付きました。
●「カードの仕事は、関係者の信頼関係。失うのは一瞬、取り戻すのは一生。」
●「消費者目線で、日本一の商品・サービスを開発せよ。」
●「物事をゼロベースで横串に見ると、意外な真実が見える。」
●「細目に至るまで、経営者感覚で収支を把握せよ。」
次回は、富山の売薬商人 金盛五兵衛(かなもり ごひょうえ)が、幕末の文久2年(1862年)に薩摩藩国父 島津久光公から100両(現在価値で約2,200万円※)の大金と、日本刀一振りを賜った理由、そして明治維新へ与えた壮大な影響をひも解く予定です。
ご期待ください。
※幕末通貨の現在価値換算出典:日本銀行高知支店サイト