著者:小河 俊紀(おがわ としのり)
はじめに
当連載7回目は、12月8日から執筆開始しました。この日は、奇しくも79年前の1941年に日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃し、米英連合軍と太平洋戦争に突入した開戦日に当たります。結果、当時日本の20倍ものGDPを誇る米国の圧倒的な物量作戦に敗れたのですが、それだけでなく真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦ふくめ大きな戦局で暗号通信をほとんど米英軍に傍受・解読され、情報戦レベルで日本は早期に負けていたと言われます。
昭和20年(1945年)8月6日と9日に、広島と長崎に原子爆弾が投下され、15日に終戦を迎えました。軍人だけでなく、一般市民に至るまで合計310万人以上が犠牲になり、戦争末期にかけて日本全体が焦土と化しました。
あまり知られていませんが、1945年8月2日午前0時36分、米軍のB29大型爆撃機174機が、富山市中心部に50万発以上の焼夷弾を投下し、町は一瞬にして焦土と化しました。
この「富山大空襲」は市街地の99・5%を焼き尽くし、被災した人はおよそ11万人、亡くなった人は2700人を超え、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出しました。
(マーカー部分出展:未来に語り継ぐ富山大空襲の記憶)
当時、富山市中心部に居住していた私の両親と二人の兄は奇跡的に逃げ延び無事でしたが、父方の祖母は焼夷弾の直撃で即死し、遺骸はとうとう見つからなかったそうです。
明治新政府の光と影「脱亜入欧」
情報収集力と言えば、前回にも書きましたが、江戸時代の日本では、富山の売薬商人が「仲間組」と称する全国規模の“草の根情報ネットワーク”を構築し、全国庶民の健康を護った長い歴史があります。
しかし、明治新政府は西洋化政策を急ぐあまり、明治3年(1870年)の訓令で「神仏の名をかり、あるいは秘伝秘法などととなえ商民をあざむき分外の高料をむさぼり候」と和薬を糾弾し、「無効無害」と決めつけました。
さらに、明治16年(1883年)の売薬印紙税法の施行で、出荷額に一律10%印紙課税しました。置き薬のうち利用代金を回収して初めて売上げが立つ売薬事業に、配置総額への前払い課税をしたため、実質課税率は40%にも達しました。明治政府の意図は、売薬業の改良発展を促すというより、これを廃滅させる考えであったようです。
「この売薬印紙税規則の公布は、脳天を石にて打たれた以上に大きな打撃を業者に与えたのであった。すなわち明治十六年(一八八三)には、にわかに製薬高は前年に比し八分の一たる八十五万円、行商人は九千七百人の多きより六千人に減少し、翌十七年には製薬高六十五万円に減少したのであった。」
「明治十年一月二十日に至り、大政宵布告第七号を以て、「売薬規則」を公布した。この規則は多少の修正加除があったが大正三年「売薬法」の制定まで約四十年に近い間続いた。政府がこの規則を制定した本旨は、売薬の改良発達を期する意志でなく、ついには、これを廃滅せしめようとの考えであったようである。」
富山大学学術情報リボジトリ富山売薬商人は、幕末に窮乏していた薩摩藩財政を昆布貿易で立て直し、(後述の通り)情報収集面でも薩摩藩と島津久光を支えた陰の功労者です。いわば、明治新政府の大恩人です。
明治政府は確かに日本の近代化に大きく貢献しましたが、一方、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教文化の破壊)をはじめ、それまでの伝統的日本文化をことごとく「封建的」「前近代的」と拙速に否定し過ぎました。それが太平洋戦争という暴走につながった、と解釈するのは間違いでしょうか? 悲惨な戦禍が二度と起きないことを祈りつつ、富山の売薬商人の情報収集力の凄みに、今回から迫ります。
明治維新の発火点とは?
ところで、明治維新とはいつが節目なのでしょうか?
禁門の変(1864年)、大政奉還(1867年)、王政復古(1867年)、江戸城無血開城(1868年)、五箇条の御誓文(同年)、戊辰戦争(同年)、明治へ改元(同年)、版籍奉還(1869年) などいろいろな観点があると思います。ほとんどが、薩長と幕府軍の戦いの経過点です。
しかし、本稿は明治維新と富山の売薬商人の関係を主題にしているので、私独自の視点でいろいろ思索してきました。
結果、それらの節目より早い「文久2年(1862年)の幕政改革が明治維新の起点」との結論に至りました。
ちなみに、江戸時代に行われた幕政改革には、享保の改革・寛政の改革・天保の改革、いわゆる三大改革が有名ですが、それらはすべて幕閣(幕府中枢)主導で行われたものです。
ところが、幕末の文久改革だけは、薩摩藩 国父 島津久光が主導しました。薩摩藩の最高実力者とはいえ、外様で無位無官だった島津久光が、朝廷を後ろ盾に国政の改革を迫るという事態は、「幕政史上、前代未聞の画期的大事件だった」のです。
(赤文字出典:宮地正人著、「天皇制の政治史的研究」 校倉歴史選書刊)
言い換えると、幕府の指導力はそのころ既に失われていたのです。
安政5年(1858年)に幕政の実権を握った大老井伊直弼は、欧米諸国に迫られて不平等な日米修好通商条約を締結する一方、反体制派の粛清(安政の大獄)等強権支配を進めた結果、万延元年(1860年)に水戸藩脱藩者17名に暗殺されてしまいました。「桜田門外の変」です。その後継者として実権を握った老中の安藤信正も、水戸浪士7名に襲われ、負傷しました。「坂下門外の変」です。強力なリーダーを次々失い、これ以降の幕府は、加賀藩はじめ地方外様大名にまで国政の方向性についていろいろ相談するようになりました。(出典:「加賀藩の明治維新」宮下和幸著)
平たく言えば、執権としての自信喪失です。そこへ畳みかけて幕府を揺さぶったのが、島津久光でした。
寺田屋事件
島津久光は、実は江戸で幕政改革に着手する直前の文久2年(1864年)4月23日に1,000名の家臣を伴い先ず京都に入りました。京都に潜む薩摩藩の急進的尊皇派を排除・鎮圧するためです。
寺田屋事件(寺田屋騒動)です。いわば内部粛清ですが、この数十名の急進派を鎮圧するために、1,000名もの家臣と富山の売薬商人6名まで随行していました。そして、6月にはそのまま江戸に向かいました。
島津久光の真意
ひとつだけ陣容が変化したのは、京都からは勅使大原重徳に随従したことです。朝廷の意向をバックに幕政改革で主導権を握る目的でした。
「京都での寺田屋事件は、薩摩藩の統制力を朝廷へ誇示する示威行為であり、薩摩藩内部への牽制、そして幕府への揺さぶりの序曲だった」と、私は解釈しています。
幕府を支持しつつ、朝廷と幕府が折り合う「公武合体論」を主張する島津久光は、同年(1862年)6月に江戸に入り、安政の大獄で窓際に追いやられた一橋慶喜、松平慶永、松平容保といった改革派と組んで時代に即した幕政改革を順次進めていきました。
文久の幕政改革骨子
職制改革 | 政事総裁職 :越前藩主・松平慶永 将軍後見職 :一橋家・徳川慶喜 京都守護職 :会津藩主・松平容保 |
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軍制改革 | 西洋式軍制の採用 洋式陸軍の設置(洋式の歩・騎・砲3兵の設置、陸軍奉行が統轄) オランダへ留学生を派遣 |
学制改革 | 学問所奉行の設置 蕃書調所 → 洋書調所として改編(翌63年に開成所) 西洋医学所 → 医学所と改称(1863) |
政治改革 | 参勤交代制の緩和 隔年 → 3年に1度、在府は100日 妻子の帰国を許可 |
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
出典:「世界の歴史マップ」 文久の改革 | 世界の歴史まっぷ
激動する内外情勢に即した改革骨子ですが、歴史学者でもない私が本稿で内容を詳述するのは避けます。
唯一、政治改革として「参勤交代の大幅緩和」があることに興味を惹かれます。本稿4回目でも触れましたように、江戸から遠いため参勤交代の負担に苦しんできた薩摩の意向が強く反映しているのでしょう。
島津久光に随行した富山売薬商人の任務とは?
前回の本稿で、島津久光から富山の売薬商人金森五兵衛に100両(現在価値2,200万円)の大金と、島津公の日本刀一振りを賜った話に簡単に触れました。
薩摩藩での実権を握って間もない島津久光にとって、京都上洛も江戸入りも初めてであり、多くの家臣に加え、富山の売薬商人まで随行させたのは、よほどの緊張があったと推測できます。
ところが、島津久光の旅程を記録した島津藩史料『島津久光公実記』には、出発日などの記載があるものの、売薬商人の随行に関する記載は無く詳細は不明です。
密田家文書から特命をひも解く
富山の売薬商人のうち、薩摩藩専門の仲間組「薩摩組」を構成した商家のひとつに密田家があります。
加賀藩能登出身で富山に移住したので「能登屋」と号し、天保期には4百石積みの中型船「栄久丸」と650石積みの大型船「長者丸」二隻を保有し、ともに蝦夷地で昆布を買い付けて薩摩へ輸送していました。
当家に伝わる古文書『密田家文書』の「願書留」という資料に謎を解くカギがあります。
「隠密御用の骨折につき金子下渡の書付」(付録2)には、「寺田屋事件」前後の薩摩組の任務のことが記されています。
(現代語訳)
「御出発される際に私たちは極内御用を仰せつけられました。……四月には大坂において御役方様を御方へ付添い申上げ、近江辺りまで遣い置かれました。……同所から京都に御滞在中、また東海道筋江戸表までも恐れながら守護させていただきました。江戸に御滞在中の間もまた同じです。御帰国の際にも恐れながら守護させていただきました。」
薩摩藩には、このあたりの経緯を示す資料は何も残されていません。唯一、薩摩藩主席家老喜入久高(きいれ ひさたか、通称 “摂津”)と思しき人物から、本件礼状が下町人(薩摩藩側の売薬世話役)の木村喜次郎経由で2年後の元治元年(1864年)6月に届いたことも、密田家文書には記録されています。
※下記書状は、該当原文を筆者がワードで複写転記。
「隠密御用の骨折につき金子下渡の書付」 (付録2)
つまり、何らかの重要な特命(スパイ活動)を富山の売薬商人金森五兵衛達が島津久光から受託し、それを成就したことへの感謝状だったと推察されるのです。
特命の仮説
「特命は3点」と、私は推測します。
1) 上洛から江戸入り含めた道中の案内役
2) 勅使大原重徳、島津久光はじめ1.000名の随行者の健康管理
3) 幕末日本の情勢について、全国仲間組からの情報収集
日本を変えようとする島津久光にとって、人脈の薄い朝廷や幕閣を説得し、持論を通すだけの確実な根拠(広範囲の最新情報)が絶対に欲しかったはずです。それが、任務3)です。
もし、文久2年(1862年)6月の江戸入りから元治元年(1864) 6月の感謝状下賜までの2年間で、幕政改革以外に島津久光が喜ぶ大きな出来事が起こっていれば、私の推論が間違っていないことになります。
この間の年表を調べてみますと、下記の出来事が見つかりました。
「文久3年(1863年)12月30日、 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議)」
典;ウィキペディア幕末の年表 – Wikipedia参預会議とは、公武合体に向けて朝廷から任命された改革検討会議です。これこそ島津久光が仕掛け、待ち望んだ国政組織です。残念ながら、この組織は意見がまとまらず半年くらいで解散となりましたが、この件は、幕府とまだ敵対していない薩摩藩が国政(幕府)を揺さぶった節目でした。私独自の見解ですが、これが明治維新へ向けた大きな変動の序曲であり、ここから幕府の権威が内部から崩れ始め、幕府が朝廷にひざまずく流れが本格化したのです。
今回のまとめ
前回詳述しましたが、富山の売薬商人は、17世紀フランスの商学者ジャック・サヴァリの説く「完全な商人」と讃えられています。
1) 信用と信頼性
2) 良い商品
3) 市場調査
4) 記帳と計理
元禄時代から1世紀半にわたって仲間組が培ったこれらの総合力が幕末に薩摩藩と島津久光を支え、明治維新をもたらしたのではないでしょうか?
「明治新政府の大恩人」と私が比喩する理由です。
富山の売薬商人とは、いったい何者なのでしょうか?
いよいよ、ここからが当連載最大の仮説に入ります。かなり精度が高いつもりですが、正確で慎重な記述をしないと無用な誤解を生みますので、次回にします。
ご期待ください。
皆様、良いお年をお迎えください。