著者:小河 俊紀(おがわ としのり)
はじめに
新年明けまして、おめでとうございます。
今年こそ、人類が新型コロナ禍を乗り越える再起動の年になるよう祈念しつつ、当連載を執筆します。
否応なく立ち止まるしかない今だからこそ、過去の歴史から不易の教訓を学び、未来に発展的につなげることが子孫への義務ではないでしょうか。
前回は、「文久2年(1862年)の幕政改革が明治維新の発火点になった」との持論を展開しました。その幕政改革を仕切った薩摩藩国父 島津久光が、大きな局面で富山の売薬商人薩摩組に隠密御用(スパイ活動)を命じ、彼らがそれにしっかり応えた経緯を書きました。
薩摩組ふくめ、富山の仲間組とはいったい何者だったのでしょうか?
仲間組とは?
当連載5回目にも書きましたが、仲間組とは、全国22か所(時代により若干増減)に売薬商人同士で組織し、横に張り巡らされた“草の根情報ネットワーク“です。幕末には、総勢2,300人を超えていたとも言われます。
仲間組は、行商の自主規制(「仲間示談定法」)を共有し、富山藩の行政当局である反魂丹役所との交渉等を行いながら顧客の信頼確保に努めました。以前ご紹介した現役売薬商人である森田裕一氏は、「富の山の人」(経済界刊)で、現代語訳で規則の骨子を紹介していますので、やや要約して引用します。(同書P.164~165)
1)旅先では決して争いごとを起こさない。
2)女遊びや酒宴は慎む。
3)病気の時、困難なときにはお互いを助け合う。
4)バクチ、口論を避け、和合を第一にすべき。
5)薬を1軒の得意先に二重に配置してはならない。
6)値引きをしてはならない。
7)定宿は、建前として変更しない。
9)町には、夜はもちろん勝手に出歩かない。特に、軍事関係のことは見物に行かない。
10)お金の扱いは慎重に。目立ってはならない。
非常に厳しい規則ですね。しかし、これがあったからこそ、富山の売薬が300年以上生き延び、日本一の信用を維持できたのでしょう。
この中でも特に私が興味を惹かれるのは、5)~7)です。「無駄な競合の排除=自己統制力」です。
ちなみに、東洋大学 香田浩文教授も、江戸時代に富山売薬と並び栄えた奈良の大和売薬との相違点はそこにあると指摘します。
富山売薬行商人は、仲間示談定法により仲間同士の競争が制限されるばかりでなく、他国の売薬行商人との競争までも、互いの間で取り交わされた協定や協約によって規制された。しかし大和売薬行商人は、上記のような仲間規約が定められていたとはいえ、富山のような藩や役所、仲間組による強力な規制がなかったため、他国のみならず自国の行商地域への割り込み、得意先の奪い合い(重ね置き)、値引き競争などにより絶えず諍いが生じていた。仲間組の組織力、行商人の営業力、行商圏の範囲などのいずれにおいても、富山売薬の後塵を拝していた。
出典:明治政府の売薬観と大和売薬情報収集のプロ 忍者とは?
ところで、隠密御用(スパイ活動)と言えば、忍者を連想します。
忍者の発祥は諸説あり、紀元前中国秦の始皇帝の命を受けて来日した徐福を忍者の祖とする説もあれば、源義経が開祖という説もあります。南北朝時代(1336年~1392年)から戦国時代を経て江戸初期にかけ、諸藩大名の下で敵方の攪乱や情報収集役として大活躍しました。
(参考文献: 山田雄司著「忍者の歴史」角川選書、蒲生猛著「戦国の情報ネットワーク」、コモンズ)
徳川家康を支えた伊賀忍者として、服部半蔵が有名です。
真田幸村に見い出されたのが、甲賀系忍者の真田十勇士。
修験山伏と農民を50人編成し、黒革の脚絆を付けた黒脛巾衆(くろはばきしゅう)という忍者集団として活用した伊達政宗。
越中富山に関しては、前田家が当地を支配下に置くまでは、上杉謙信の雇った「軒猿(けんえん)」という忍者集団が売薬商人に姿を変え、越中で情報収集をしていたという説もあります。
忍者というと、黒装束で特殊な武器を操り、闇から闇を渡り歩くアウトローのような謎のイメージがあります。
しかし、それは一面にすぎず、日常的に山伏や虚無僧、または普通の行商人や芸人だったり、稼業に多様性がありました。
忍者のバイブル「万川集海」
忍術の全貌を正しく明らかにする根源の書として、伊賀と甲賀に伝わる四十九流の忍術を集大成した江戸初期の秘伝書に「万川集海(まんせんしゅうかい)』があります。
知謀計略から天文、薬方、忍器まで忍びの業のすべてを明らかにする忍術の最高指南書で、忍者の正式な心得が示されています。
これを読むと、本物の忍者とは難行を極めた高僧の如く高潔な人格者を示すようです。確かに、そうでなければ、戦国武将の信頼を得られたはずもありません。怪しいアウトローという偏見は、是正した方がよさそうです。忍者研究の第一人者である山田雄司教授は、「忍びの者の行う仕事は、音もなく臭いもなく智命もなく勇名もないけれども、その功は天地造化のごとき大きな仕事である」(「忍者の歴史」P.119)と、万川集海を解釈しています。
富山の売薬商人とどこか似ている人物像と思いませんか?
忍者と山伏と売薬商人の相関関係
ちなみに、忍者で有名な甲賀では、忍者と山伏と売薬商人の相関関係を認めています。
修験道文化が色濃く残る滋賀県甲賀市。各地の祭りで護摩をたいて法要を営む「山伏」は、地域で結成した講によって住民らが守り継いでいる。甲賀の山伏文化について、地元の人たちに聞いた。(中略)甲賀の山伏は、京滋の寺社のお札を全国に売って回り、なりわいにした。同時に甲賀の山で採れた薬草で薬を作り売った。甲賀に現在も多い製薬会社のルーツとなる。甲賀忍者のイメージの基になったともされる。(京都新聞)
出典:日本山岳修験学会立山信仰と富山の売薬と、忍者
実は、富山の売薬が、霊峰立山の山岳信仰(山伏)をルーツとするのは定説です。
山伏と医療の関係は、ほぼ全国の修験者 に共通するものであり、九州求菩提山修験の造薬活動をはじめ、大和大峯修験の医薬、陀羅尼助は著名なものである。(中略) 富山売薬が全国的に普及したのは、藩統制による 売薬商人の活動は勿論であるが、その背景に立山を申心とする北陸修験の売薬活動があつたことに注意しなければならない。
出典:神戸常盤短期大学教授 根井浄氏論文「富山売薬と修験者について」使った分だけ後払いの「先用後利」も、立山の修験者(山伏)を始祖とし、護符と秘薬を信者に先に渡し、効能があったら後日お布施として返してもらう習慣が始まりのようです。
しかし、富山の山伏や売薬商人と忍者の相関関係についての直接的な学問的資料は、今のところ私には見つけられていません。
それでも、冒頭紹介した富山売薬仲間組の規則(「仲間示談定法」)と忍者の心得には、共に相通ずる品格と自己統制が漂います。「全員ではなくても、富山売薬商の一部は忍者の遺伝子を引き継いでいる」という推理は成り立たないでしょうか?
推理小説「密命売薬商」と出会った!
1991年に江戸川乱歩賞を受賞した作家 鳴海章氏の「密命売薬商」(集英社)という推理小説があります。2017年4月に刊行された644ページにも及ぶ大作です。
主人公である富山の薩摩組売薬商人 於菟屋藤次(おとやとうじ)が、幕末期に北前船に乗って荒れ狂う日本海から蝦夷(北海道)にわたり、死力を尽くして高級な利尻昆布を仕入れ、薩摩藩に届けるまでの日本縦断・波乱万丈の推理小説(フィクション)です。
「幕府ご法度の昆布取引(抜け荷)を目論む藤次を暗殺せよ」と親藩の加賀藩から任命された刺客 馬淵洋之進が絡み、最終ページまでハラハラする展開が続きます。
推理小説と言えども、執筆にあたって著者は公的な資料ふくめ43種類もの歴史文献を参考にしているので、リアル感が半端ではありません。実際、巻末には映画監督の崔 洋一(さい よういち)氏の称賛を込めた書評があります。
冒頭の荒海の描写に心奪われた。木っ端同然に怒涛に洗われた弁財船(北前船)が面白い。スペクタクルは、細密描写のスケール感というよりは、ある種、大叙事詩の聖域に密入国するようなスリリングな感情すら湧かせる
(P.648)この物語は、映画になるのか、と読み始めたのは、どの段階からなのだろう。そう、それは多分、季節外れの厳冬の日本海だろう。つまりは、無謀な航海が曳く(ひく)冒頭から嵌って(はまって)いたのだ
(P.654~655)本書は出版から3年半の月日が経っていますが、崔監督の手で是非映画化してほしい作品です。
この作品の凄み
歴史の学問的文献は、客観的事実を重視するため、当事者をめぐる生々しい臨場感はどうしても希薄になります。
例えば、富山売薬商人の顧客台帳は“掛場帳”と呼ばれますが、この掛場とは「本来は薬の配置してある「懸得意(かけとくい=お得意さん)」の場所であり、懸得意の地域的集団をさすものであり、商人の「懸廻り」する地域に当る」と、売薬研究の権威 故富山大学経済学部植村元覚教授は分かり易く精密に解説されています。出典:論文「掛場帳について」
ところが、「密命売薬商」で鳴海章氏の手にかかると「薬売りたちは、自らが担当する地域に誇りをもって掛場と呼ぶ。単なる商圏ではなく、“わが命の掛けどころ”ほどの思いがこめられているのだ。」(P.94)
と、描写に凄みを帯びてきます。実際、この小説を読了すると、治安が悪化した江戸末期において、売薬商人がいかに生命を賭して全国を駆けめぐっていたかが眼に浮かび、鳥肌が立つような臨場感に襲われます。
そのような超人的な任務を遂行できた理由が、本稿執筆開始当初から私には謎でした。それが、鳴海章氏の推理力によってリアルに解明されています。
鳴海氏は、主人公の正体について、「売薬商 於菟屋藤次(おとやとうじ)は、あくまでも表の顔にすぎない。藤次は、戦国の世に生まれ、立山連峰の奥に今も生き続ける忍び一族の血と技を受け継いでいる」(P.219)と人物設定しています。
藤次の忍び(忍者)としての秘技は、柳行李の底に忍ばせた「矢立(やたて)」による護身術です。
矢立は、もともとは武士が矢を収める道具ですが、売薬商人は丸薬の数を数える便利グッズとして常に携行していたそうです。
ところが、この推理小説では、藤次のもつ矢立は、蝦夷地で昆布調達の大金を狙う強盗や、仕入れを妨げる素浪人から身を護る鋼入りの特殊な武器となっていて、敵を一撃で排除する威力が描かれています。
今回のまとめ
忍者の大半は、江戸中期以降には全国的に表立った活動をやめ、農業や城下町の警備要員などに転業しています。
富山の売薬商人も、故郷に帰れば農業に従事したようです。
今のところ、「島津久光から隠密御用を受けた幕末の富山売薬商人薩摩組6名は、実は忍者であった」との根拠はありません。それでも、幕末期の天候異変や重税に苦しむ全国庶民を皮膚感覚で知り尽くしていた彼らが、島津公の求めに対し、時代を変えようと積極的に忍者の遺伝子を再起動させた可能性がないとはいえません。もちろん、単なる打算ではないでしょう。
「密命売薬商」の最終章は、以下の描写で完結します。
私は思わず、落涙しそうになりました。
密貿易や黒糖売買によって莫大な利益を得、五百万両の借財を消した上、蓄財まで成し、さらに藩内産業や軍隊の洋式化を積極的に推進した薩摩藩は、一躍倒幕の主役に躍
り出ることとなる。
慶応四年(1868年)、ついに江戸幕府は倒され、明治維新という回天事業は成就した。
富山の売薬商は、維新を通じて薩摩での商売を続け、西南戦争の後には、戦いに敗れ、落ち延びてきた薩摩藩士をかくまうほどの強い絆を持つに至った。
売薬商売は、今も続いている。
次回は、「加賀藩は幕末にどのように動いたのか?
富山藩、および富山の売薬との関係は?」という未着手の課題を整理し、私なりに未来のマネー像をまとめていきたいと思います。
ご期待ください。