他の人と違う生き方をしている人、夢を追い続けている人…。
社会の中に色々な生き方を選択する人が増えた。
そんな人たちは、どのように生計を立てているのか。お金をどのように考えているのだろうか。
他人のお金の価値観、向き合い方について探る連載企画 『お金とわたし』。
今回は、世界各地を冒険するプロ冒険家である、阿部雅龍さんにお話を伺った。
「お金が全てではない。しかしお金がないと僕らは生きていけないことも事実である」
何千万円もの冒険資金を集め、プロとして冒険活動をする阿部さんにとって、お金はどんな存在なのだろうか。
夢とお金の関係を軸として、阿部さんの人生を詳しく伺った。
「冒険家は小さい頃からの憧れだった」
「1年間で150万円貯めた」学生時代の冒険と苦悩
「まずは自分自身の力を蓄積したい」自費で冒険する20代の生活
「他人とコミュニケーションを取るのが苦手だった」人力車から得たこと
「月に200枚近く手書きで手紙を書きます」スポンサー獲得の苦労
「人に好かれることに尽きる」夢とお金の関係
「挑戦することが当たり前の環境を作りたい」
「冒険家は小さい頃からの憧れだった」
― 初めまして。阿部雅龍さんは、現在どのような活動を行っていますか?
僕の活動は大きく分けると、人力車夫と講演・執筆と冒険活動の3つです。人力車夫はお金を稼ぎつつ、冒険に必要な体力づくりのトレーニングとして続けています。
また、冒険から得た経験を伝えるために、講演や執筆活動も行っています。冒険や旅の活動は、年100日以上は欠かさずに続けていますね。
僕は冒険や旅をしたくて生きているので、資金集めばかりに集中して冒険や旅に行けなくなることが無いように、意識しています。
― なぜプロ冒険家になろうと考えたのですか?
冒険家が小さい頃から憧れの存在だったからです。僕は元々身体が弱くて、いじめられることもよくありました。
そんな僕にとって、勇気を出して仲間を集め、仲間と一緒に困難なことに挑戦する冒険家は、まさに理想の存在でした。
高校生や大学生になるにつれて、冒険家という職業は非現実だと思い始めました。
大学三年生の頃には、周囲は就職活動をしている中でも、働きたい仕事もなく、勉強も嫌いだったので、どうしたらいいかわかりませんでした。
そんな時にふと思い出したのが、小さい頃の憧れである冒険家という道だったんです。
― 冒険家になると言い、周囲から反対の声はなかったのですか?
友達からは、反対よりも馬鹿にされる声が多かったです。「現実から目を背けているんじゃねえ」と言われたこともありました。
母親には「せっかく国立大学にも入学して、良い就職先もある筈なのに、なぜ冒険家になるんだ」と大反対されました。
ただ、僕にとっては現実逃避でもなく、真剣に考えた上での冒険家という選択でした。当時の僕は、人目を気にして言いたいことも言えないような性格で、そんな自分自身が嫌いで仕方なかったです。
だから、自分を貫きやりたいことに挑戦する冒険家は、小さい頃だけでなく、大学三年生になった当時も憧れの存在でした。
また、僕が大学生の頃は終身雇用の考え方が当たり前の世の中だったので、大学卒業後の進路選択は、まさしく人生最大の転機でした。
「いま就職をしたら、一生冒険家にはなれない。」
「ここで変わる決断をしないと永遠に自分を変えられない。」
そうやって考えていたと振り返ると思います。
結果、母親に大反対されても自分を貫き通して、半ば勘当される形で家を飛び出しました。今では母親との仲も戻り、あの時自分を曲げないで冒険家になって良かったです。
「1年間で150万円貯めた」学生時代の冒険と苦悩
― 冒険家になる決意をしてから、大学生時代はどのように過ごしましたか。
冒険家になると決めてからは、1年間休学をして、必死に冒険資金を貯めました。
友達の家に仮住まいをして、パン屋さんと塾講師とバーテンダーの3つのアルバイトを掛け持ちしました。1日18時間くらいは働いていましたね。
秋田は賃金がすごく低かったので、なかなかお金が貯まらず、飲み会や遊びにも一切行かずに半年間頑張り続けました。
最終的には、1年間で150万円を貯めることに成功して、翌年に南米を自転車横断する冒険に行きました。
― 一人我慢してお金を貯め続ける生活は苦しくなかったのですか?
もちろん苦しかったです。
当時は今ほど精神的にも強くなかったので、周囲の友達が楽しく遊んでいる姿を見ると、羨ましくて、辛かったです。
それでも挫折せず、冒険家としての道を貫くことが出来たのは、恩師である冒険家・大場満郎さんに出会えたからでした。
大場さんとは休学している間に冒険学校で出会ったのですが、「この人みたいな人になりたい!」とすぐ思いましたね。 自分が憧れる理想の人に出会えたからこそ、踏みとどまって努力できたのだと思います。
「まずは自分自身の力を蓄積したい」自費で冒険する20代の生活
― 大学卒業後からは、冒険活動をどのように継続していったのですか。
大学卒業後は、冒険資金を貯めるためにも、昼間に浅草で人力車夫として働き始めました。できるだけお金をセーブするために、夜はゲストハウスで住み込みの宿直していました。
宿直は2人体制だったので、夜に寝ることもでき、しかも家賃や光熱費もかからないので、支出を最大限抑えることができて、良かったです。
さらにゲストハウスには外国の方が多く宿泊するので、冒険活動で必要になる英語の勉強にもなりました。
冒険活動は、経験の幅を狭めないためにも、ジャンルを問わず様々な冒険するように心がけていました。ジャンルを絞って初めから冒険をしてしまうと、考え方の幅が広がらないんですよね。
僕は、色々な分野の冒険に取り組んで、自由な考え方ができるようになりたかったので、山・海・川など色々な場所へ冒険に行きました。
「他人とコミュニケーションを取るのが苦手だった」人力車から得たこと
― なぜお金を稼ぐ仕事として、人力車夫を選んだのですか?
人力車夫を始めた理由は、お金を稼ぐこと以外に、3つメリットがあったからです。1つ目は、体力づくり。2つ目がコミュニケーション能力の向上。3つ目が日本文化の勉強です。
コミュニケーション能力に関してですが、僕は元々他人と話すことが得意ではありませんでした。
しかし、コミュニケーション能力は世界各地を冒険していく中で、必要になる力だと考えてはいたので、あえて人力車夫になることで自らを追い込むことにしました。
人力車ってかなり料金が高くて、バリバリの営業職だから、予想通り追い込まれましたね。人力車って1時間乗るだけで1人8000円もかかるんです。
いきなり声をかけて、予定にも無かったことに、1時間8000円を支払っていただく。しかも、給料はほぼ歩合制なので、乗ってもらわないと、給料が殆どありません。
僕の場合は生活費に加えて、冒険資金も稼ぐ必要があったので、必死にコミュニケーション能力を磨きました。
また、老若男女問わずお客様を楽しませるためには、話し方を都度変える技術や、外見や印象も意識する必要があります。
そこで髪型を短髪にしたり、歯をホームホワイトニングしたり、すね毛を剃ったり、可能な限り努力しました。鏡の前で笑顔の練習などもやっていました。目尻を下げることがポイントなんです。
人力車業は全国でもトップクラスだと月100万円、下だと月10万円程度の給料です。最終的に努力の甲斐あって、月40万円くらいまで20代で稼げるようになったので、冒険資金を貯めることができました。
他には人力車夫を通じて日本文化を勉強することもできました。日本について語れるようになることは、海外で冒険するうえでは非常に重要なことです。
外国の方は自国のアイデンティティを強く持っている人が多く、自国について話せない方は少ないです。
だから、外国の方にも協力して頂く機会が多い僕にとって、自国について語れないことは致命的な欠点でした。その点、人力車夫は日本のガイドも行うので、働きながら日本について学ぶことができました。
会社ではガイド能力の試験もあって、A4で20枚30枚の情報を丸暗記したこともあり、鍛えられましたね。
「月に200枚近く手書きで手紙を書きます」スポンサー獲得の苦労
― 30代になってからは冒険資金の確保をどのようにしていましたか?
30歳になってからは、スポンサーから資金援助を受けるようにしました。
20代は自分自身の力を蓄えて、30代になってからは経験をアウトプットすることで、資金を集めていこう、と学生の頃から考えていました。
ここで20代の頃から人力車夫で鍛えてきたコミュニケーション能力、喋りの技術が役立ちましたね。いくら貴重な経験を積んでいても、それを面白く相手に伝えることができないと、人を動かすことはできません。
人を動かすことができなければ、資金援助を受けることもできないので、喋りの技術は非常に大切です。
企業スポンサーを獲得することは、今でもかなり苦労しますね。まず何より企業の広報担当者と繋がることが難しいです。
当時は、企業の広報担当者に繋がるために、まず四季報を見て企業代表に電話をかけました。
当然、代表が電話に出ることは無いです。
でも、電話で広報部の担当者の名前だけでも聞き出すことができれば、担当者宛てに手書きで手紙を書いて、企画書と一緒に送ります。
手書きの手紙だと無下にできないじゃないですか。だから電子メールやDMと違って開放してくれます。
ここからが重要なポイントですが、数日後に再度、担当者に電話をかけてみると、間違いなく電話を繋いでくれるので、そこで直接会う約束を取るわけです。
こうやって、アナログな手法を用いて、地道に僕を応援してくれる人と繋がっていくことを僕は大切にしています。
特に手書きで手紙を書くことは重要視していて、今でも名刺を頂いた方には、必ず手書きの手紙を書いています。だから月に200通近く手書きで手紙を書いていますね。
他には、アナログな手法として、僕は突然相手に会いに行くこともやります。
例えば、約7年前にクラウドファンディングで冒険資金を募ったことがあるのですが、この時も突然会いに行く手法を使いました。
クラウドファンディング会社の担当者と僕がどうしても合わなかったのです。
僕はアポなしで会社に行って、ノックして、「すみません。担当者変えてもらえませんか?」といきなり言いました。 この時はものすごく驚かれましたね。
ただ、驚かれましたが、嫌な顔はされず、担当者もきちんと変わりました。僕自身がそうですが、意外と突然会いに来られても、人は嫌な気分にはならないものです。
特に熱意をもって仕事に取り組んでいる人は、同じように熱意がある人が好きですから。だから、熱意ある人は気負いせず、グイグイ行動した方が良いと思います。
「人に好かれることに尽きる」夢とお金の関係
― プロ冒険家として活動する上で大切なことはなんでしょうか。
最も大切なことは「人に好かれること」これに尽きると思っています。僕の活動を支援してくれる人の多くは、僕の冒険について詳しく知らないです。
それでも有難いことに支援してくださるのは、僕という個人を好きでいてくれるからです。活動ありきではなく、誰が行っているのかということが大切です。
これは資金面の援助だけではありません。冒険の仲間集めでも同じことです。例えば、僕はアマゾン川を手作りのイカダで下る冒険をしたことがあります。
その時は、初めて会った現地集落の方にイカダ作りを手伝ってもらいました。
無償で初めて会った人のイカダ作りを手伝ってくれるなんて、理屈でもなんでもなく、単純に僕を応援したいと好きになってくれたからだと思います。
もう一つ重要なことは、お金が大切だという事実から目を背けないことです。お金だけが全てでは無いです。
しかし、お金が無いと僕たちは生きていけないという事実も認めないといけません。
僕が長年目標としてきた、人類初の『しらせルート(冒険家「白瀬中尉が挑戦した南極点へのルート)』での南極点単独徒歩到達という冒険も、飛行機のチャーター費だけで7500万円かかります。
体力づくりやコミュニケーション能力など、様々な能力を鍛えることと同様に、お金も重要な要素の一つです。だから、プロとして社会から資金調達をするために、社会の流れは意識することも大切です。
当たり前ですが、社会の流れに即したこと以外にお金を社会は出してくれません。自分の好きなことをやるだけでなく、社会の流れに即していく柔軟性が必要です。
僕はこのことを恩師である大場さんから学ぶことが出来たのは有難いことでした。きっとこの事実から、目を背けてしまう人は夢半ばにして挫折してしまうのだと思います。
「挑戦することが当たり前の環境を作りたい」
― 今後はどのような活動を行いたいと考えていますか。
自分自身での冒険活動を続けていく一方で、冒険学校を作りたいと考えています。冒険学校では、冒険家を育てるのではなく、挑戦することの面白さや大切さを伝えていきたいです。
あと、夢に向かい挑戦する人がお金を理由に諦めないように、お金の大切さも一緒に教えていきたいと考えています。
今でも小学校の講演では、挑戦することの面白さだけでなく、お金の重要性も避けないで、伝えるように心がけています。
自分を貫いて、やりたいことに挑戦することが当たり前な環境を、仲間と一緒に作ることが僕の夢です。
プロフィール
阿部雅龍
冒険家
「メスナールート」での南極点単独徒歩到達918kmを日本人初踏破達成
サポーターズクラブ:人力チャレンジ応援部
Twitter:@MasatatsuAbe
公式ブログ:夢を追う男 ~次の夢の実現へ~